此処の所色々な事があり、お薬の変化が決め手となって

疲れてしまいました。まだまだお薬になれることは出来ません。

此処での日記更新は暫く休止します。

いつもコメントで応援してくださった方々に、

沢山の感謝の意を込めて・・・・・・。




ナノ
 
 
お薬が変わった影響で、感情が大きく波打つようになった。



『物凄く涙脆くなった。』

『凄く苛々するようになった。』

『直ぐ怒り心頭に発するようになった。』

『一寸した事で絶望感を覚えるようになった。』



そして



『自分など必要ない人間。さっさと死んでしまえ』



と言う想いが更に強くなってしまった。途方に暮れてしまう。




こんな状態になって、果たして新薬を飲み続ける必然性は

有るのだろうか・・・。些か疑問である。

また、毎日毎日こんな調子なので、心身が参っている。

今までは感情を抑制・鎮静させていたのに、こんなにも自分の

想いに振り回され、戸惑うし疲れるのである。




苛々したら声を荒げ、1人で虚空に向かって文句を言っている。

それに怒りのボルテージが上がると抑えられず、それが何故か

希死念慮へと繋がる。



もう生きていたって仕方ない。どうせ死ぬための人生。

だったらこれ以上苦しむのは沢山だ。死にたい死ね。

自分を殺したい!




と言う想いが溢れ出して止まらないのである。声にもしている。




その一方で、哀しい事件を耳にすると号泣したり、素晴らしい

音楽を聴いて涙を流したりしている。

8月6日の広島原爆記念日などは、広島の事を思い出す度に

涙が溢れて止まらず、嗚咽する声を漏らした。




自分に付いて行けないのである。




兎に角疲れた。生きている事自体、疲れてしまった。

しかしこのままでは、病気に殺されるという不本意な事に

なりかねないし、母を看取るという約束も破ってしまう事に

なる。それは避けたい事項である。だから苦しんででも

生きていかねばならないのだと、必死で己に言い聞かす。




明日は診察日であるので、新薬を中止して元に戻して頂こうかと

思案している。感情を抑制・鎮静化されてぼんやりと過ごす方が

楽なのであるから・・・。けれどもそうなると、人間らしい活動も

緩慢になってしまうのであるが、そちらの方がマシである。

自分がこんなにも怒り易い人間であったのか、涙脆かったのか、

苛立ちを大人として抑制できなくなったのかと思うと、

情けなくなる。




これから明日までゆっくりと考えて、結論を出したい。
昨日は徹夜をして病院へ行った為、かなり疲弊した。

しかし、得たものはとても大きく、貴重なものだと感じる。

カウンセリングでの様子は昨日綴った通りであるが、本当に

以前の自分と比べると、落ち着きを取り戻しつつある事に

気付かされた。以前の私は動揺する事があると直ぐ自傷に

走り、滅茶苦茶に手首を切っていた。糸の切れたカイトの様に

心はいつ何処へ浮遊して飛んで行ってしまうか、

カウンセラーの言葉を借りればハラハラするものであった。



その後、直ぐ主治医の診察がある。主治医も診察に

とても時間をかけてじっくりお話を聴いて下さるので、

落ち着いて話を進めることが出来る。新薬の話をしたり、

脳の構造の話をしたり・・・と色々あったが、一番心に強く

残っているのは、


『言葉の力は私にとって偉大である』


という事である。私は思ったことをノートに書き綴った詩が

かなりある。その内の2冊は主治医に渡した。主治医はこのまま

預かっていたいと仰った。私にとって本当に、『言葉』

というものは、大きな位置に占めている。心に溜まる苦しみ、

自然を感じ温かくなる心、自分の事等それらを表現するには

言葉である。その反面、私は


『言葉による親の洗脳から抜け出せていない』


と言う一面も持っている。だからこそ病は治癒へ向かわない所か

フラッシュバックを起こす程の父からの汚い言葉に、苦しむ

羽目に陥るのである。

そして診察中、勧められた詩集があった。主治医は本をよく

貸して下さる。今回お借りしたのは、

寺○修司著の『○山修司少女詩集』

である。まだ私は最初の方しか読んでいないが、胸に響き、

なんて美しい言葉が綴られているのだろうと感動した。

最初の『海』という題目でも沢山の

詩が広がっている。涙が出そうになる程綺麗な言葉がある。



閑話休題。

私は一睡もせず病院へ向かったのであるが、カウンセリングでは

そんなに眠気を感じる事も無く終わらせられた。しかし、

主治医の声が何だか心安らぐ温かい声の為、睡眠状態になった

感覚を覚え、話を進めるうちに目の焦点が合わなくなった。

でも必死で眠気をこらえてお話していると、

「寝てないから眠いでしょ。採血した後、そのベッドで

寝ていていいよ。」


と見抜かれ、その上優しい言葉をかけて下さった。

お礼を申し、そして私は漸く眠気に逆らう事なくいられた。

採血も注射針が血管に入る様を何故か凝視して、上手いなぁと

感じながら、血液を多目に抜いたのでその為による眠気も

相俟って、ベッドに身を沈めた。そして度々看護師さんが

様子を見に来てくださり、大丈夫?とか

此処は一応18時までやってるからゆっくり休んでね

声をかけて下さった。久し振りに人の温かさに触れ、胸に

熱いものが溢れた。人の優しさは本当に宝である。



母は私を病院へ送った後、美容室に行ったのでお迎えにきて

くれる時間がいつになるか分からなかったが、17時過ぎには

来てくれた。私も母も個人がやっている同じ美容室でお世話に

なっている。母は髪を栗色にして、ショートボブにクルックルの

緩やかなパーマをかけ、とても若々しく見えた。

私は明日、予約を入れてある。1年以上美容室には行っていない

ので、髪は背中の真ん中まで伸び、パーマも取れている。

そしてお迎えに来てくれた後、主治医と看護師さんにお礼を

述べて病院を後にした。



昨日は本当に温かき人の心に触れられた。

素敵な詩集も貸して頂けたし、ゆっくり詠み進めたい。



今日も明日に備えて早目に眠りたいと思う。 
夜中、幾分お酒に酔っていた私はPCに携帯で撮った画像を

取り込みたくなった。しかし説明書も読まず適当で良いやという

気の大きさから、miniSDカードをそのままPCに

入れてしまった。その瞬間、その挿入口の横の注意書きに、



〜略〜mimiSDカードを使用の場合は必ず専用

アダプタを装着してご使用下さい




と書かれてあった・・・・・・。馬鹿だ馬鹿だと自分を罵り、

どうにかして入り込んでしまったminiSDカードを

取り出そうと試行錯誤したが、無理であった。落胆したし

心が寒くなった。なんて私はこうもドジなんだろうと責めた。

とりあえずその晩は諦め、次の日手先の器用な弟にメールした。

すると「今から行く」と返事をくれて、近所の友達の

所に遊びに行っていた弟がすぐ来てくれた。そうして色々探って

みると、別の場所にカードが移動していて、弟はいとも簡単に

小さいカードを取り出してくれた。




そのカードには姪の小さい頃からの記録や綺麗な風景、

姪の動画などが詰まっていたため、途方に暮れていたのである。

それを救ってくれた弟は本当に『弟様様』である。神様だとも

感じた。




タイトルの兄弟は両の手と言う意味は、



兄弟は左右の手のように互いに助け合うべきであるという例え
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

である。妹と弟とは離れて暮らすようになり、子どもの頃の様に

いつも側に居るわけではない。だからこういうピンチ時に

助けてもらえると、物凄くありがたい気持ちになる。

私の為を思って直ぐに駆けつけてくれた弟には感謝しても

しきれない程の気持ちを抱いた。




小さい頃から私は2人の『お姉ちゃん』としてその役割を

担っていた。離婚後、母が仕事で忙しい時は私が母親の代わりに

なり、勉強を教えたり、叱ったり、御飯を用意したりした。

しかし兄弟喧嘩も沢山した。掴み合いや物の投げ合いの

激しい喧嘩も、日常茶飯事であった。でもこうして兄弟皆

大人となり(弟はまだ19歳であるが)こうして頼り頼られて

生きていることに感謝の念を抱く。兄弟を産んでくれた母、

そしてその母を産んでくれた祖母。筆舌に尽くし難い程

感謝している。物凄く些細で私の馬鹿な出来事にも真剣に

心配してくれる。そして温かい言葉を掛け合う事が出来るように

なったのは最近になってからであるが、本当に兄弟を大切に

したいと強く思った。




私はこんな病気で痩せてしまっているので

弟は会う度に「ちゃんと食べてる?」と心配してくれる。

「まあね・・・。」としか言い返せない事が哀しい。




妹は、子どもと暮らしていく為に、夜のお仕事ではあるが

体調を崩した時も頑張って働いている。立派だと感じる。

私はいつまでも病気のまま、母のすねを齧り続けているので

あるから・・・。我ながら非常に情けないと感じる。

こんな病気さえなかったら、働けているのに・・・家にちゃんと

お金を入れてもっと楽しく暮らせているかもしれないのに・・・

そう思うと私は胸が痛む。何も頑張れない、無気力の自分。

しかし今はもう、妹も弟もこんな情けない状態の私を責める事

等無く、温かく見守ってくれている。




スーパーへ行く為にしか外出できない・・・なんて情けないのか!

幾ら病気の症状だからと分かっていても、



普通の人が普通にやっている事ができないのだ!

思うと、悔しい。

そして凄く焦る。このまま私は朽ち果てていくのではないかと。




今は何も出来ない。けれどもいつか、この病気たちが快方へ

向かった時に、今まで出来なかった事を頑張りたいと思う。

今は俯いたままで前を見る事さえ苦痛であるが、ゆっくりと

足元を見つめて自分の進むべき道を踏み外さないように、

歩いて行きたいと感じた。 
此処の所深く深く抑うつの波に飲み込まれている。

哀しいような、そして虚しいような、泣きたくなる感覚が

静々と心に迫ってきている。『このまま済し崩しに生きて

この先に一体何が待ち受けていると言うのであろう・・・。』


と言う想いが頭から離れない。悔しくて悲しくて、でも涙は

出ない。涙を流した所で余計自分が惨めに思えてしまうからで

あろうか・・・。けれど私の周りで刻々と変化していく環境が

悲しみの底に突き落とすようである。




今日は姪が扁桃腺からくる熱で39.5℃もあり苦しんでいたと

聞いた。妹はそれでも夜の仕事を休むことは出来ず、姪の事は

妹の親友に託していた。勿論病院へ連れて行ったのは母で、

そこで解熱剤と抗生物質を処方されたようである。

わたしは子どもの頃、小児喘息を患っていて身体も弱く、

直ぐに熱を出す子どもであった。母は氷枕を作ってくれただけで

家の中とはいえども側にいなくて離れた所にいた。それだけで

熱に浮かされた自分は幻覚を見たり幻聴を聞いたりして

苦しかったものである。出来る事なら側で手を握っていて

欲しかった。けれども母は色々やる事がある為に処置だけは

きちんとして自分のやるべき事をやっていた。それはそれは

心細い思いをした。母は恐かった為「側にいて」とは

言えなかった。




39.5℃の熱と言えば、かなり苦しいであろう。そんな時、

母親が側にいてくれない姪はどんな悲しい思いをするのであろう

と考えると、とても切なくなる。代わって涙が出そうになる。




いつもの如く、夜中の2度目の過食嘔吐は酷く辛かった。



『食べたくない!やりたくない!』



と強く思っていても、心はぽっかり空いている穴を塞ぎたいが

為に食べ物を胃へと次々詰め込んでいく作業を止めない。

最近は徹底して嘔吐をする為に、何度もキッチンとトイレを往復

して、微温湯を1リットル飲んではトイレで嘔吐し、また

キッチンへ戻り同じ量を飲んで吐き出す。固形物が全く出て

来なくなって、胃液や胆汁が吐き出されたところでやっと解放

される。今の体力が全くない状態では、それだけで蒲団の上に

ぶっ倒れてしまう。しかし眠剤を飲まないと頭が冴えて眠れない

ので、寝転がった姿勢のまま数種類のお薬を出して薬包を破り

錠剤も粉薬にされた向精神薬も、胃薬もビタミン剤も一気に

飲み込む。そうしてやっと安らかな眠りにつけるのである。




勿論寝覚めは悪い。目が覚めてから落ち着くまで暫しぼんやりと

していなければならない。急に動き出すと起立性低血圧で

ぶっ倒れてしまうからである。しかし少し落ち着いた所で私は

シャワーを浴びねばならない。その後の行動も既に

決まりきっている。強迫観念の為、決まった通りに物事をこなし

進めていかないと、何か心地が悪く気持ち悪く感じるのである。

こんな時、臨機応変や考え方のスイッチを切り替えられない

自分に非常に腹が立つ。




ずっとそんな毎日が続いている。泣きたいけれど泣けない程に

追い詰められている。時間を決めてやる過食嘔吐でさえ

強迫観念と強迫行為であると言える。主治医もそう言っていた。

だから時々、



何もかも擲って逃げ出したくなる。



しかし私には逃げ場など無い。この大家にいつも見張られている

様な針の筵のような家・部屋で息を殺して過ごしている。

だから、夜になってしまうと抑制していたものが暴発して

過食嘔吐となってしまうのであろうと薄々感じている。




私の今のストレス源は沢山ありすぎて綴りきれない。

それは、はっきりとしたものから漠然としたものまで沢山ある。

しかし、消える事も死ぬ事も赦されない。

茫然自失のまま1日を終える毎日は大変苦痛である。




スーパーへ行く道すがら、空を見上げると太陽など見えない

厚く薄いグレーの雲が立ち込めていた。空は灰色一色であった。

歩きながら泣きたくなった。私の事等どうでもいいから、

今苦しんでいる妹や姪を救って欲しい。そして母を少しでも

休ませてあげたい。けれども私の病気は重篤さを増す一方で

成す術はない。涙が込み上げてくるのに呆然としている心には

何も感じ取る力がなかった。




少しでも自分に余裕があれば、母はこんなにも苦しまなくて

済むのにと思うと本当に申し訳ないと感じる。

私は一体何処へ向かって進んでいっているのであろうか・・・。
生活リズムを正したいと心では切実に思っているが、身体が

付いて行かない。「何も食べたくない」と思っているのに

いつの間にか、食べ物を口に運んでいる自分がいる。

何かを埋める為に、寂しさを紛らわす為に。




過食嘔吐を終えると、急速に抑うつ状態に覆われる。

また虚しい事をしてしまったと、心は埋め合わせたものが

無くなった不安から、あちらこちらを彷徨い始める。

物凄い罪悪感と後ろめたさが次から次へと襲ってくる中、

途方に暮れて唯ぼんやりと無為な時間を過ごす。

過食をしている最中も、苦しみながら涙を流し嘔吐している

最中も何処にも助けなど無い。1口食べ物を口にしてしまった

ばっかりに過食へと繋がってしまった、自分を呪う以外術は

無い。




まるで操り人形のようである。マリオネットの様に時間が来れば

私は日課となった事柄を始める。

『摂食障害の思念』に脳をも侵された状態で、透明の糸が

私の手を操り食べ物を口に次々と運び、止まらない。暴走した

その行為は嘔吐が終わった時点で操られた状態から解き放たれ、

その劇は終焉を迎える。くしゃりと糸が綻んだ状態で私はやっと

自分を取り戻せる。しかしそれは罠であろう。強かに次の

過食嘔吐を糸を操る侵された脳が待機している。




阿呆大家の『吐く位なら食うな!!』

と言う言葉は脳裏に焼きついていて、私は拒食に拍車がかかった

状態である。その後も色々ごたごたがあり、栄養摂取の為の

スープさえ喉を通らなくなった。




それでも救いの手段があった。この借家6軒に住んでいる人達と

結託して、皆の意見として大家の矛盾した行動に突っ込みをいれ

私達、周りの人達が『より良い生活環境』を求めるべく

抗議する事に決まったのである。私はかなり疲弊していて

行動力も失せ、抑うつ状態が酷く思考が上手く働かない為、

母やこの借家に住んでいる人達と共に頑張る事となった。




先日、夢の中に『オー○の泉』のお二方が出てきた。

夢の中でお二人は「心をもっと寛容に持ちなさい」

仰っていた。夢の詳細までは覚えていないが、そのメッセージが

心に深く残っている。不思議な夢であった。




心が弱っている時は、身近にあるものに縋りつきたくなり、

依存状態に陥る。苦しければ苦しいほど周りが見えなくなり

依存の罠が待ち受けているのである。


今の私はきっとこの『食べ物』に執着し

依存して過食嘔吐を繰り返すのであろう・・・。そして操られる様に

『食べたくない!!!』という意志に反して

過食を行う。お腹等減っていない。吐く辛さを味わいたくない。

私は今、正に罠の中で足掻き、余計にその罠は体に絡まり、

マリオネットの糸だけが正常に、私を依存の底へと突き落として

いる感じが否めない。




私達家族だけでは手に負えなかった下水問題、下水管工事etc...

借家に住んでいる人々と結託できたら、その発言力は抜群に

強さを増すであろう。それだけが今の救いである。




ゆっくりと前へと進めれば・・・時には立ち止まって休みながら。

先ずはこの俯きがちの顔を上げたいと願う。
 
 
今朝はいつもより早目に過食嘔吐とその片付けを終えて、就薬を

服用し、眠りに就いた。この頃断眠する事が多かったので、

15時迄には目覚めるつもりであったが、起床したのは16時

であった。今日は17時半から電話診察の為、余裕は無く

焦りに焦った目覚めであった。




過食の事について詳しく記した事は少ないと思うが、

最近は酷いものである。客観的に見ても兎に角

『醜い』・・・。

次から次へと口から胃へと押し込み、次に食べるものを目敏く

探す。より吐き易いように、胃が限界を訴えるまで。

味なんて殆ど関係ない。好きなものはどうにか味わって食して

いるが、ただ胃を膨らます為に量が多く且柔らかいものばかり

口に運ぶ。『壮絶』なその姿は

誰にも見せられない。




それが毎晩毎晩休む事なく繰り返される。

『過食嘔吐せねばならない』

といった想いが次から次へと押し寄せる。苦しくても体調が

悪くても、風邪を引いていても『やらねばならない事』

なのである。私はどうなってしまうのだろう。今どの位置にいて

何処へ流されていってしまっているのであろう・・・。苦しくて

苦しくて何も分からない。暗闇の中、泥濘の中、踠き足掻いて

いる。本当は『助けて!』

何かに助けを乞いたくなる。

しかし誰にも助けられない。精神科医でも無理な事である。

自分のやっている事なのであるから、自己責任としてどうにか

心の処理をしていかねばならないのであろう。




電話診察では、

「太る恐怖の根源は“怒り”じゃないのかな。」

と主治医は仰った。私は小さな頃から体罰で縛り付けられ、

また、一番苦しかった母親の自殺未遂を目撃した頃は、

学校のオバサン教師が「女子はうじうじしているから嫌いだ」

と些細な事で男女差別され、あらゆる罵詈雑言を浴びた。

家へ帰れば父親が酒に酔い、母にあらゆる怒号を浴びせ、

学校へ行けば担任教師から差別され汚い言葉を投げつけられた。

塾の先生は父の弟だったが、何故か私にだけ冷たかった。

ピアノの先生はいつまで経っても上達しない私に愛想を尽かして

いた。何処に行っても私は邪魔者、厄介者扱いされた。




確かに、それら理不尽な差別や叱責に怒りが湧く事もあったが、

洗脳で『大人は絶対的存在』とされていた為に歯向く事等

出来なかった。特に私の体型に対しての厭味な悪口は苦しかった

覚えがある。だからこそ、それらの怒りから逃れる為にも

大人の洗脳から逃れる為にもダイエットは理路整然

とした対抗方法であったと思う。しかしそれが十何年も苦しみ

続ける病気に悩まされる原因となる事等私にとって青天の霹靂

であった。




その上うつ病が酷くなってきている。毎日抑うつ状態である事が

当たり前の様になってきた。そして他にも様々な病を患っている

のであるが、唯、私はこのままどうなってしまうのであろうか、

何処へ流れていってしまうのであろうか全く見当もつかない。




取り敢えず焦らず、ゆっくりゆっくりと今日の主治医の言葉を

噛み砕いて理解できるまで静かにしていたいと思う。
今日は母の日である。年に一度、このような素晴らしい日がある

という事は有難い。日頃は照れ臭くて言えない事も出来ない事も

自然に行なえる。




何にもない日に母にお花をプレゼントできるであろうか。

感謝の言葉と心を込めた手紙を自然に渡せるであろうか。




私は、母に日頃から本当に感謝の念を抱いている。口頭では

容易に「ありがとう」「ごめんね」と言えるのであるが、

言葉は時間と共に流れて行ってしまう。其処に留まる事は無い。




小さい頃、母はとても恐い存在であった。いつも見張られている

ような気がして、一時たりとも気を抜けなかった。油断して

失敗など仕出かしたりすると、殴打が待っていたのであるから。

いつの間にか甘える事等出来なくなって、母と私の間にそびえる

壁は年を経る毎に磐石なものになった。




しかし今の母はそんな昔の恐さなど片鱗もない。優しさと

大らかさで一杯である。きっとこれが本来の母の姿であろうと

強く感じる。『子どもの為なら』と言う姿勢で

生きている。




母は、私が12歳の時に離婚した。その後、私達3人の子どもを

1人で育ててきた。今まで本当に色々な事があった。やっと

少し落ち着いた環境で過ごせるようになってきたのである。

特に妹は、中学生になってからぐれてしまった為、大変だった。

母は何度警察に身元引取りに行ったか分からない。

警察に何度も頭を下げる日々を過ごした事もあった。

しかしそんな妹も一児の母となり、もうすぐ3歳になる娘の

子育てに大変な思いをしているのであろう。




私は常に『お姉ちゃん』と言う立場で

甘えは許されなかった為、我慢に我慢を重ねて『良い子』で

なければならなかった。それは母に心配をかけないためという

理由がある。その間妹も弟もやりたい放題で正直羨ましい気持ち

が少しあった。色んなフラストレーションや行き違いが生まれ、

母との関係に磐石な壁が形成されて、成す術が無くなった。




そして私は病を患い、こうして動けない日々を送っている。

14歳で摂食障害を発病した時はそんな病名はまだメジャーで

無かった為に理解など全く得られなかった。

『食べ始めたら吐くまで止める事はできない』

なんて、普通では考えられないからであろう。毎日この症状に

苦しみ、でも弱音など漏らせず必死に勉強した日もあった。

そうして私は大学を卒業できた。ただ、私の目標は

『兎に角大学を卒業する事』

であった為、卒業した途端私は行く当てが無くなった。

一応派遣会社に登録して半年の契約で働いたものの、日毎に

酷くなる摂食障害と睡眠障害で体はボロボロになった。

その頃もまだこの病気のことは家族の誰にも理解を得られない

日々が続いた。




母が変わったと感じたのは、妹達が出戻りしてきて新しい彼氏を

毎晩家に泊めるようになってからである。女性だけの家に、

何処の馬の骨とも分からない男が毎晩狭い家に泊まりこむ事は

母と私に多大なるストレスを与えた。その事で諍いを起こし

妹達は罵詈雑言を私に向けて浴びせて出て行った頃から、

母と2人暮らしの生活が始まった。その頃までは、本当に

母との間に出来上がってしまった大きくそびえ立つ磐石な壁の

前に立ち竦む事しかできなかったが、段々素直になれた。

私が酷く苦しんでいる時、母に余裕があれば近付いて話を

聞いてくれるし、母の仕事の大変さ・愚痴・お話を私が聞くのも

習慣となった。そうして少しずつではあるが壁を破壊していく

作業が出来ているように思う。




兎に角今日は、母に感謝の念を存分に表現できる日である。



「お母さん、いつも心配ばかりかけてごめんね。

そしていつもありがとう。」




この言葉が伝えられただけでも、私は良かったと思っている。
昨晩の過食嘔吐をした後、2回目の過食嘔吐をしたくなくて、

必死で時間を潰していた。けれども、それは徒労に終わった。

因って夜中の過食は午前3時半から始まってしまい、全てが

終わったのはもう6時前であった。




月曜日は可燃ゴミの日なので、過食の残骸を次々とゴミ袋に

入れて、段々と日が昇る時間にゴミ捨て場へ向かった。

外は朝靄で満ちていて見えるもの全てミルク色の膜に

覆われていた。きっと昨日の霧雨の名残であろう。霧に満ちた

朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、何だか心まで

洗われる様な爽快な気分になった。そしてゴミを置き、

家に戻る時ふと植え込みに目をやった。

手入れもしていないのに、桃の木はすくすくと伸びている。

これは姪が産まれた記念に植えたものであり、根付いてもう直ぐ

3年になる。春先は可憐な花をつけていた。青々とした新緑の

葉を自由に伸ばし、雑草にも負けず上へ上へと伸びていく。

その葉を少し押し退けて下の方を見てみると、なんと桃の実が

生っていた。まだ青くてつぶらで小さな実。凄く愛らしいながら

も力強さを感じた。




大した手入れは出来ていないが、春の麗らかな太陽を浴び、

雨水を飲んですくすくと成長していく桃の木と桃の実。

こんな身近な所にも私に力強さを与えてくれるものがあったと

思うと何とも嬉しくなった。本当に凄く嬉しかった。




しかし、だからと言って病状が良くなる等という都合の良い事は

無い。相変わらず薬による睡眠で身体はいつまで経っても

動きはしないし、目覚めてからすぐにシャワーを浴びに行くと

酷く疲弊する。それでも必死に丹念に全身を洗い綺麗にする。

そこで漸く覚醒してくる。明日に控えているカウンセリングの

事を思うと、緊張するばかりか胃がキリキリしてくる。

朝早い時間に起床できるであろうか・・・寝床から立ち上がれるで

あろうか・・・。あらゆる心配事が脳裏に去来する。

いつからこんなにも外出すると言う事が恐怖へと変わっていった

のであろう。頑張らなければお化粧も支度も出来ない。健常な

人達が普通にこなす事が、私にとって困難なのである。

でも、『久し振りに春の日差しを浴びたい』

思うのである。その為には、だらしない時間の過ごし方を

改めなければならない。今日は早く眠り、明日の事を深く考えず

ゆったりとするしか術はないであろう。




何ヶ月か振りのカウンセリング。カウンセラーに会いたいという

気持ちは強い。そして最後のカウンセリングから今まであった事

そして気持ちの変化を適確に伝えたい。本当に様々な事が

起きたのであるから。きっと固形の食べ物が食べられなくなった

と言う事実を伝えると、症状が悪化したと捉えられてしまう

であろう。けれども正直な誰にも言えない心に秘めている

気持ちはきちんと伝えたい。全き信頼を置いているカウンセラー

だからこそ言えるのである。そしてこれからの事を一緒に考えて

いきたいと思う。




果たして明日は体が動くであろうか。「行きたい!」という

気持ちとは裏腹に、身体は『動きたくない』と鉛の様に

重いのである。兎に角今日はいつもより早く眠ってしまおうと

思う。主治医が言ったように



『無理して病院へ来る事は止めた方がいい。無理する位なら

身体を休めてたっぷり眠った方がいいのだから。』




という言葉に心を落ち着かせつつ、一応外出する努力はしたいと

感じるのである。
私は気が付けば俯いてばかりいる。特に気分が塞ぎこんでいる時

等は、眼差しも虚ろで何かを見ているようで何も見ていない、

そんな状態でいる。1日の中で、鬱から抜け出せる時間は殆ど

と言って良いほど無い。




そして少し精神的にダメージがあると、胃が急激に縮み上がり

激痛が走る。これは偏に何も食べ物を食べていないからと

原因は分かっているが、それでも飲み物で乗り越える事しか

今の私には出来ない。エネルギーが無いので、日中どんなに

快晴でも窓からちらりと見るだけで、また鬱に引き込まれる。

そうして俯いて過ごす時間は日毎に増えていく。




しかし、今日はスーパーへ行く道を、少しだけ目線を上げて

歩いてみた。通り道、角を曲がった所に沢山の花々や木が

植えられている広い家がある。ふと見上げると、少し前まで

薄緑色をしていた紫陽花の花が白く咲いていた。そしてその

隣には、桜の花が全て散り、葉だけになった木にさくらんぼが

たわわに実っていた。愛らしい紅色をしたさくらんぼは瑞々しい

その存在を誇っていて、その姿は子どもの頃に見た植物たちを

想起させ、懐かしい気持ちが胸いっぱいに広がった。




スーパーの前には花屋もある。春の花で満ち満ちていて芳香が

漂い、ずっとその花々を見つめていたくなる。目線を上げて

みたり、視線を変えてみたりすれば、心を癒してくれるものが

実は本当に身近にあるものなのだとつくづく感じた。




しかしやはりスーパーへ着くと憂鬱な気分が止め処なく溢れて

くる・・・。今日もまた吐く為の食べ物を購入するのだと思うと、

居た堪れない想いに苦しめられる。スーパーへ行く前には

心が掻き乱されないようにとデパスを2mg服用するのであるが

それでも叫びだしたい気持ちになる。



一体いつまでこんな事を繰り返さねばならないのか!



自業自得であることは充分に承知しているので、それは

口に出す事なく言葉を飲み込むのであるが、その想いがどんどん

心身を蝕んでいくようである。




今は『うつ病』の為に思考能力も低下し、何も出来ず

動く事すら苦しく思う。動きたいと思っても、出来ない。

しかし大学生の頃は過食嘔吐もリストカットもお薬を多目に

飲む事もやり続けながら、毎日大学へ通い勉強をしていた。

大学では小学校や中学校の様に板書など殆どしない。教授や

講師の大切な言葉を聞き取り、それを必死にノートに書き綴る。

参考書など教科書になるものはあれども、殆どが口頭で

述べられる事が大切な事なので、集中している。その為に私は

1人、一番前の席で精力的に講義を受けていた。



あんなに頑張れていた自分は何処に行ったのであろう・・・。



腑抜けてしまったような私は、今病気と闘う事で全精力を

使い尽くしているのかもしれない。お薬に因って得られる睡眠で

束の間の休息をして、起床した途端に闘いは始まる。

しかし今日の様に少し視点を変え、俯きがちの顔を上げて

暮れていき様々に映り行く空の色と、家々が誇らしげに咲かせて

いる花々を見ていると、何となく心は和む。




花の鮮やかな色、柔い色、葉の新緑を眺めていると癒される。




充分な睡眠を取れた今日は、少し寝違えて首が痛かったが、

それでも読書ができる程まで心は落ち着いていた。

また同じ明日が来る。世間は次々と色を変え様々に動いていくが

私は部屋で独り只管病気と闘う。決してそれは世に通じるもの

ではない。



ツカエナイヤツハキリステラレル・・・



そんな世の中で私に生きる場所なんてあるのであろうか・・・。

明日も明後日も明々後日も同じ場所で私は燻り続ける。

もう何も見たくない。何も言いたくない。けれども心に沢山の

言葉が溢れ出てきて処理できずにいる。

その想いを此処で出していけたらと、そう思って言葉を紡ぐ。

明日になれば桃の木は少しだけでも成長しているであろう。

小さな楽しみを一つ一つ拾いながら過ごしていきたい。
私が住んでいる地域も今年最高温度を記録したようである。

私は暑さからか、いつもより1時間早い15時に目覚めた。

暫しぼんやりとした後、窓を開けて空を見る。快晴・・・。

夏の様に暑くなった気温に、体が中々ついていかない。

そしてシャワーを浴びる。今日は変な夢を見たためずっと反芻

していた。精神科医に歯を治療されたり、センター試験を

受けたりしていた。何の準備も無く奇妙な試験会場で数学や

英語や国語などを解いていく。しかし最後に音楽の試験が

あった。一応幼稚園の頃から小学6年生までピアノを習って

いたので譜面は読める。その譜面を読むというテストであったが

見た事もない複雑な記号が並べ立てられていて、この試験で

落ちてしまったら私はもう駄目だと落胆した。そして

「どうしよう、どうしよう」と焦っている時に目が覚めた。

何とも後味の悪い夢であった。




シャワーを浴び、心身ともにすっきりとした後、いつも通りに

ソイラテを作り飲んだ。変わり映えの無い毎日。このまま腐って

しまうのではないかと思う位、嫌気が差してしまうが、

私は強迫観念から自分が作り上げたスケジュール通り事を

進めないといられない。少しでも違った行動をすると、それが

とても心に引っ掛かって次への行動へと移せない。



臨機応変の出来ない自分に腹が立つ・・・。



いつもは過剰な程服を着込み寒さ対策をしていたのであるが、

今日はTシャツ一枚で過ごせた。それでも汗が滲み出てしまう。

明日からはいつも通りの春の陽気に戻ると天気予報で観たが、

こうも暑いと唯でさえ鬱でやる気の無い状態に拍車をかけて

しまっている。




こんな季節の変わり目、良く思い出すのは大学生活の事である。

1回生の終わりにとてもとても大好きな恋人が出来て、2回生に

入る頃には同棲していた。6畳一間に2畳程度のキッチン、

ユニットバスの余り贅沢だとは言えない狭い部屋で、

私は大学から其処へ帰った後、シャワーを浴びて只管彼の

帰りを待っていた。とても幸せだった。愛する人の為に洗濯して

掃除をして部屋を整える。しかしその彼はワーカホリック

であった為、帰宅するのは午前2時や3時となる事は当たり前

であった。最初の頃こそ彼の帰りを待ちわび、勉強をしていた。

しかし、心の奥底から沸々と『寂しさ』が込み上げた。

PCはあったもののネットには繋げていなかった為、彼の好きな

音楽を聴きながら、ソリティア等のゲームをして時間を潰した。

しかし段々と寂しさはエスカレートしていき、過食嘔吐は免れた

もののアームカットをするようになった。それと共にお酒の量が

どんどん増えていった。私の寂しさはまだまだ未熟な子ども

だからこそ生まれたものであると今は感じている。

毎晩、ウォッカをオレンジジュースで割った

スクリュードライバーを飲んだり、ワインを1本空けたりして

その勢いで思い切り腕を切り裂いた。その傷は今でもケロイド

となって残っている。それを見る度、その頃の苦い思い出が

甦ってくる。結局その恋愛は私の病気が重くなった事と、

彼が私の所為でうつ病になり仕事に行けなくなったという最悪な

結果で終止符が打たれた。要するに私は振られたのである。




しかしその後が辛かった。私はまだ彼の事が好きで、どうにか

また振り向いて欲しくて、彼のアパートの部屋の前で何時間も

ずっとずっと待ち続けた事もあった。これではストーカーだと

今、冷静な心境に立つと実感する。でも、彼が



一緒に病気を治していこう



といってくれた優しい言葉が忘れられず、縋りつきたい気持ち

だったのであろう。しかし結局彼は直ぐに新しい彼女と付き合い

始めて、私は眼中に入らなくなってしまったようである。




思い出したくない、辛い過去。私は21歳で世間知らずの子ども

だったからなりふり構わず8歳年上の彼にどうしても頼りたいと

思ってしまったのであろう。彼との思い出を想起すると

楽しい事もあったし哀しい事もあった、甘くて苦い奇妙な気分に

陥る。この失恋から立ち直るのに2年はかかった。切ない思い出

となって忘れたくても忘れられない記憶として刻まれている。




そしてその後、病気は勿論悪化していった。アームカットだけ

ではなく、手首から肘まで夜になるとお酒の勢いで切り刻み、

半そでが着られない腕になった。過食嘔吐も1日に8回などは

当たり前となっていた。そして精神科で処方されたお薬を

1週間分講義中に飲み干すような、もう目も当てられない程

イタイ行動を繰り返した。しかしそれも立ち直る為の必要な

時間であったのかもしれない。しかしその所為でその頃は

1週間分の薬を処方されなくなって週に2回病院へ通わなくては

ならなくなった。




恋愛中の自分、そして失恋してからの自分、立ち直ってからの

自分etc...をいつも見守ってくれたのは今のカウンセラー

である。ボロボロな私も、訳の分からない状態に

陥っている私もつぶさに見守ってくれていた。カウンセラーには

本当に感謝の念が尽きない。




今日は本を読む気が無かったのでそんな過去の甘くて苦い想いを

頭の中に巡らせていた。あんなに全身全霊で愛し、愛されたのは

あの時限りである。今はもう恋愛等懲り懲りであるし、興味を

失った為、結婚する事もないし、子どもも産まない。

その前に重篤化した私の病気を治さねばならない。




私の病気が治ること・・・それは一体いつの事になるのであろう。

外科手術のように悪い部分を切り離す事等出来ない。

だから今日もこの奇妙な体温を持て余しながら、強迫観念に

支配された1日を過ごしていくのである・・・。
朝方、風の吹き荒む中、可燃ごみを出してきた。

薄明るくなった空を見上げ、あらゆる想いが心の中を駆け抜けて

いく。この世に生きる辛さや苦しみも一緒に吹き飛んでしまえば

良いのにと暫し風の中にいた。




そして部屋で就薬を飲もうと袋を取り出した時、ふと祖父の事が

心に浮かんだ。外国船の船乗りで気丈だった祖父。戦時中は

海中に魚雷があり、祖父の乗った船も爆破され九死に一生を

得たのであるが、目の前で

『お互いどちらかが海の上で死んだらお墓を作ろう』

と固く誓い合った親友が沈んで死に行く様を見たという。そして

そのお墓は祖先の墓がある寺に無縁仏として存在している。

他にも様々な船や海でのお話は、沢山聴いた。

しかしそんな祖父も私が大学4年生の時に脳出血で倒れ、

身体に後遺症は無かったものの、酷い認知症となった。

そして今の祖父の口癖が、



「今話した事もあっち向いてこっち向いたらもう忘れてる」



と苦笑交じりに漏らすものである。

祖父は脳血管性の認知症である。

アルツハイマー型の認知症は、家族の事すら他人と思い、

名前も思い出せない等少し特徴が違っている。

しかし祖父はいつも私達孫の事を心配しており、祖母のことを

とても頼りにしていて、病気で入院しても祖父を一人にする事は

出来ず、必ず祖母が毎日病室で寝泊りしなければならない。

祖父が祖母の事をとても愛しているという証拠に、

必ず結婚指輪をしている事から窺える。どんなに認知症の症状が

静々と酷くなっていても、祖母の事は決して忘れないし、

母の事や孫である私の事を想ってくれている。

たまに私の名前が一発で出てこないのは、母の妹の子どもと

名前が似通っているからだと思うようにしている。




祖父は自分がそんな辛い状況にあっても、こんな私の事を

思ってくれていると感じると、胸が熱くなり涙が流れてきた。

そしてわんわん泣きながら就薬を服用した。




私は正に脳と心の病気を患い苦しみの最中にいる訳であるが、

そんな祖父の事を想うと自分の事なんて何でも無いのでは

ないかと感じる。そして私の想いは祖母・母へと移行していく。

私の身体は自らがボロボロにしてしまっている。それも拒食や

過食嘔吐という形で・・・。それでも見棄てずにいてくれる母、

「元気な顔を見せにおいで」と言う祖母。

私の大切な家族親族のことを想うと心から



「ありがとう」



という気持ちが溢れ出てくる。だからこそ、この世の摂理でも

ある『生老病死』の順番が正しく機能してしまうと、私は

とてもとても大切な祖父や祖母の最後を看取らねばならない

運命にある。そして母も同じく・・・。




私は、そんな事に耐えられない。自分の命は空気よりも軽いと

常々感じている。もしも私の大切な人達が生きていてくれるなら

こんな命なげうっても良いとさえ想う。そんな様々な想いに

駆られて中々涙を止める事ができなかった。




人は産まれてから、死へと向かって生きている。

人は必ず死んでしまう。

私は病気の真っ只中に居て、苦しくて辛くてどうしようもない時

その死期を自ら選び取り、己の手によって自分の命を左右出来る

とさえ思う。でも今存命している祖父母や母より先に逝って

しまう事は、大きな悲しみと傷を残してしまう。




私が生きているのは常々言っているように、自分の為では無い。

大切な人達を想い、私の自決に因って深い悲しみを残さない

為に生きているだけである。外出すると思っただけで途端に

体調を崩してしまう廃人同然の私には、生きながらえる事しか

術は無い。でも、大切な人達の最後を看取るのも私は大いに

傷付き哀しみその傷は癒えないであろうと感じる。




ただ、父の事だけは心の隅の方で心配はしているものの、

其処には虚無感が漂う。これまでも今も妹と弟との差別は

無くなっていない。父には持病があり、今は弟が眠りに帰って

いるだけの家に住んでいるがいつ何処で倒れるか解らない。

同情の念こそ抱く事はあれども、母のことを親戚中で苛虐抜いた

過去を思えば、自業自得であると感じる。




体調や抑うつ状態が少しでも緩和されたら、早く祖父母の顔が

見たい。偽りであれども元気だと装って笑顔で会話を

交わしたいと願う。なのに思うように動かない身体が本当に

憎い。




今はまだ休養の時期だとして、少しずつ英気を養っていきたいと

願う。
世知辛いこの世の中に、一体どれだけの優しさが散りばめられて

いるのであろうか。




勿論心の優しい人は沢山存在する。けれども、少しでも卑しい

心を持った人は、その人を標的にして苛虐の対象とするので

あろう。大人の社会でも、小・中・高校生の生徒同士の苛虐と

何ら変わらない事が行われていると感じる。




私は以前働きながら大学の夜間コースに通っていた。

市役所から天下りしてきた60歳を過ぎた男性所長と

事務員である私という2人だけの職場だった。

最初の頃こそ普通に接し、解らない事があれば丁寧に質問し、

本社からのマナーマニュアルを熟読して必死に頑張っていた。

しかし私の勤めていた所は『出張所』であったために、仕事が

殆ど無かった。私の前に務めていた人はいつも読書をしていたと

言う。仕事を始める前、支社での研修で其処の課長や支社長に

「凄く暇な仕事場だから、やる事をきちんとやった後は学校の

勉強してていいからね」と了承を得ていた。

しかし私の勤めていた出張所の天下り所長はそれが

気に食わなかったらしく、陰湿な苛虐が始まった。




その頃、其処にはまだPCを置いてなくて、文書は全てワープロ

で作成しなければならなかった。同時に大学の情報処理の講義で

タッチタイピングを義務付けられていた為、必死で練習した。

職場では文書作りの他、本社での様々な事業内容を覚える為

にも、パンフレットやマニュアルをワープロで打ち出して

勉強した。しかし天下り所長はそのワープロでカタカタと

打つ音が「五月蝿い・・・」と小声で言い、所長の足元にある

ワープロのコードが繋がっているコンセント部分を蹴り続け、

仕舞いには蹴り抜いたのである。突然画面が消えて壊れたと

思ってコードの先を目で辿ると未だコンセントを蹴り続ける

所長の足があった。陰湿だと思ったが我慢していると、その内

ちょっとしたミスで舌打ちして厭味ばかりを込めた事を言う

ようにまでなった。そして解らない事を質問しても、

「あんたに解らんものがわしに解る訳なかろうが」

何も答えてくれない上、険悪さを増していった。




PCが導入されてから天下り所長は、それに支社の人が

インストールした囲碁ゲームを午前中ずっとやっており、

午後はパチンコに出掛けていた。




マニュアルには『上司が外出する時は行き先を聞いておく』と

あった。そうしないと大切な電話がかかってきた時に対応

できないからである。だから『行き先と何時ごろ帰社するか』を

パチンコに出かけるであろう天下り所長にわざわざ尋ねなければ

ならなかった。いつもの通りやっていると、ある日突然キレて

「わしが何処に行こうと構わんだろう。放っとけや」と

怒鳴ったのである。最初に述べたとおり、此処は2人だけの

職場。

小学生の時父が一方的に母を怒鳴り罵っていた恐怖が甦り、

その内、私は心身症の症状がでてきた。




そしてその内母が作ってくれたお弁当が食べられなくなった。

まるで乳幼児が食べるような小さな小さな容器にしても残して

しまう。嫌がらせと厭味と舌打ちとスポーツ新聞を読んだ後

PCを立ち上げ囲碁ゲームに耽る天下り所長・・・。




私は仕事をできるだけ自分で探して色々とやっていた。朝は

30分以上早目に職場に行き、掃除や観葉植物に水をやったり

所長の為にコーヒーを淹れる準備をしたりと怠けなかった。

でもどうしても空白の暇な時間が出る為に、支社長が許して

くれていた大学の勉強をした。それがやはり天下り所長の

お気に召さなかったようで、嫌がらせは日増しに酷くなり

私は出社する事を思うと頭痛がしたり腹痛がしたりするまでに

なった。職場にいれば脈が飛ぶ不整脈まで出るし、過呼吸を

引き起こしそうになる。しかしそれで苦しんでも誰も助けて

くれる人などいない。




そこで悟った。社会に慈悲などないと。優しさなど持ち合わせて

いる人は極めて少ないと。




そして、冷酷で上へ上へと目指す人はその優しい人を踏み台に

して昇格していく。全てはお金。そう思った。




実際は違うという事を信じたい。そんなに歪み切った思いやりの

かけらもない世の中ではないと・・・。




半年必死で持ち堪えたが、結局辞めざるを得ないほど追い詰め

られた。その時にも所謂パワーハラスメントにあった。

だから今でも60代の私が住んでいる地域の人間に嫌悪感を

抱く。特に言葉がダメである。60代以上の人は兎角方言が

汚いのである。その口調、音を聴く度に私は大学1回生の頃を

思い出す。まだ摂食障害の治療は放置したままであり

悪化していた事を、腕をカッターで切る行為が習慣化して

しまった事を。




今日の電話診察で、


『普通の優しさ』


について触れたので、ふと思い出した出来事であった。

「たら、れば」の話になってしまうが、19歳のあの時、

誰かにその辛さを相談できていたら、普通の優しさを感じられて

いたらと考えると残念でならない。




これは本当に記憶から消し去ってしまいたい過去の話である。

傷付いた心は中々癒えないものなのだとつくづく感じた。 
昨夜未明、近親者が陰惨で残虐な事件の被害者となった。




詳細はその彼女の為に伏せたい。しかし彼女と私の姪は心に

大きなダメージを受けた事に間違いは無い。それほど惨たらしく

酷悪な事件であった。




しかし警察は容赦しない。想像もつかないほどダメージを受けて

いる彼女に明け方まで事情聴取をして、今日には昼から現場検証

に連れ回されていた。彼女は妹の大親友なので、昨夜駆けつけた

時、妹は号泣していた。そしてその犯罪が行われている場に姪も

いて、その目で見たことを一生懸命言葉にしていた。そして

終には「ママ、お願いだから抱っこして。」と泣き出した。




自分はは酷く無力だと感じた。彼女らが感じている哀しみ、

憤りに只管心が共鳴して、ただただ涙が出るだけであった。




心のケアの為、被害を受けた彼女は数日の入院が必要だと

私の頭でも解るのに、警察は現場検証の為に思い出したくも無い

場所へと彼女を連れ出した。




私は何も出来ない。姪を守る為に妹の親友は犠牲となった。

言葉が見つからない。けれど被害にあった彼女の苦しみがまるで

自分の事の様に重く圧し掛かる。彼女を思い、私はまた泣く事

しか出来ない。




卑劣で残虐な事件。しかし私の住んでいる地域の警察は、よく

ニュースに出ている程『裏金問題』で税金を自分の肥やしに

しているし、犯人検挙率が著しく低い。




この時期は木の芽時なので犯罪が多発する。まさか近親者が

その被害にあうなんて思いもよらなかった。




私は心が共鳴してしまうと、自分とその人との心の境界が曖昧に

なってしまう。状況を聞いた私の頭の中で融合してまるで自分に

起こったかのように感じてしまい、半狂乱に陥りそうになる自分

を何とか落ち着かせる。




そしてもうすぐ3歳になる姪。3歳前後から人間は記憶が残る。

姪が目にした残虐で恐怖に満ち溢れたその情景が心の傷に

ならないようケアが必要であろうと感じる。




しかしどれも、無力すぎる私には出来ない。




それに被害にあった彼女の心の傷は一生消えないかも知れない。





もうこれ以上綴れない。一緒に警察へと足を運んだ母から聞いた

話がまるで目の前で起こった事の様に映像化される。




彼女のダメージが少しでも和らぐ事、心のケアがきちんと

なされる事を祈る事しか、私には出来ない。