いつもの如く、夜中の過食嘔吐が長引き、酷く疲れた為

隣の部屋でぐったり倒れていた。しかし早く胃薬を服用し

眠剤も服用せねば昼に起きられなくなるので、重い足取りで

部屋に戻り、一連の作業を終えて眠りに就いた。目覚めたのは

16時である。急いでシャワーを浴び、一息つけた所で

様々な思いを頭の中で巡らせていた。




私が通っていた高校は、キリスト教プロテスタント系の学校で

あった。勿論毎朝礼拝があり、授業に聖書の時間もあった。

私は無神論者であり、無宗教であるが、聖書には色々と

気付かされる事が多く、学校で暇な時に読んだり好きな箇所に

付箋を貼り付けたりしていた。

其処で今日、ふとこの言葉が頭に浮かんできた。




『あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。』

( マタイ・7・3〜5、ルカ6・41と42 )



と言う言葉である。

全体の文としては、

『人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与

えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ

自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって「あなた

の目からおが屑を取らせてください」とどうして言えようか。自

分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸

太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟

の目からおが屑を取り除くことができる。』

( マタイによる福音書第 7 章 )



私はこの箇所を高校生の頃読んだ時、衝撃を受けた。

『人を裁いてはならない』 事に成程と言う思いを抱き

『偽善者である自分』 を思い知らされた。

私は余り神に基づいて考えている訳ではなく、日常生活に

取り入れて思考を巡らせた。私は高校生の時も毎日過食嘔吐を

繰り返していたので、本当は半ば聖書の言葉に縋る部分が

無きにしも非ずと言う状態であった。しかし私の目の中には

丸太があり、妹弟のおが屑に気付いていても取り除いて

あげられるような人間ではないと思い知らされた。



また、『人を裁くな』と言う箇所、

『あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る

秤で量り与えられる』
という箇所には感銘を受けた。



高校生の自分がその時解釈したのは、自分の心の力量や乏しさ、

小ささが浮き彫りとなった為に、もっと温かく豊かで大きな心を

持たねばと想ったのである。

自分の目の中に丸太があるというのに、兄弟のおが屑を取り除く

事等出来ない。自分は何も見えていないのであるから。

まるで『紺屋の白袴』のようである。私は盲目的に苦しんでいる

家族を救いたいと思っていても、自分は重篤な摂食障害で

何も力は無い。妹や弟が苦しんでいる・・・つまりおが屑により

開眼できず、行き当たりばったりで周りのことを見ず、好き勝手

に生きている様を見て哀しく思いおが屑を取り除こうと思っても

到底無理な話だったのである。自分の目の中にはおが屑以上の

丸太があるのだから、到底無理な話である。

つまり何を言っても説得力は無い。

そしてそんな私が裁けるはずが無い。卑小な心を持つ私が

あれこれ言って所謂判決を下したとしても、私もその卑小な

情けない心で裁かれているという事である。

この部分については何度も熟読を重ね、いろんな解釈を

高校生の頃は求めようとしたものであった。




今も、『偽善者』と言われたら何も言い返せない。

実際自分が一番強く思っていることだからである。

しかし私はこの聖書の箇所と出逢えたことによって、少しずつ

心にゆとりを持てるようにしようと感じた。

しかし、摂食障害はどんどん視野を狭めていき、心も貧しく

乏しくなっていく気がしてならない。そんな狭い力量で

人々の事を何かと言うのは自分もその狭さの中で裁かれる訳で

あり、虚しいものである。




つまり、私がこの聖書の文章で得たものは、心を広く持ち、

豊かにして『自分の目の中の丸太』に気付く事であろう

と感じている。




私は前述の通りキリスト教信者ではないが、高校生の頃

苦しんでいる時、聖書に出逢えてよかったと思っている。

様々に解釈できる言葉が連ねられている聖書は、純粋に

読み物として読む事が出来る。そしてハッとさせられる事が

多い。




今は摂食障害にうつ病と言う重い症状に苦しみ、何も見えない

状態であるが、せめて心だけは豊かにしておきたいものである。

コメント

ミルク
ミルク
2006年6月7日20:52

ナノさん、こんばんわ。

疲れがとれたようで良かったね!
この聖書の言葉、色々と深い意味があるように
感じるね・・。
私も自分を偽善者だと思う事が多いよ。
でも、偽善でも何もやらないよりいいと開き直ってるけどね^^;
あと、ナノさんは心が広いと思うよ。
心というか器が広いと思う。
卑小な心だったら、この言葉に感銘なんて受けないよ。
自分なりに色々感じる事は大切だと思うけど、
自分をあまり卑下してしまうと自分を追い詰めてしまうと
思うから、もっと自信をもっていいよ!

聖書だけじゃなく、仏教とか宗教の言葉には
とても心に響くものがあるよね。
それによって自分が影響を受けるのはとても良い事だと
私も思います。

ナノさんの心はとても純粋で優しさであふれているよ。
だから、苦しく悲しいんだよ。

お互い心に余裕が持てるといいね!

紫音
かぐら
2006年6月8日12:53

ご無沙汰しています紫音です。何だか日記を拝読させていただいて今の自分に言われているようなそんな気分になりました。
私には今余裕がなくギスギスしているのでまさにこの日記のようです…ほんと心が豊かになりたい。もっと広い心で過ごしたいですね。お体ご自愛下さいね。   紫音でした

ナノ
ナノ
2006年6月8日19:35

☆☆ミルクさんへ☆☆

ミルクさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

聖書の言葉ってかなり奥深くて高校生の頃読み解いていく
のが楽しかった気がします。そうして自分を戒めていた
部分があります。

どうしても自分を卑下して、価値の見出せない人間だと
感じているので・・・。中々考え方を変えるのは難しいもの
だと感じました。

其処でミルクさんの言葉が優しく心に染みました。
ありがとうございます。

そうですね。お互い少しでも心に余裕が出来ると良いですね^^

ナノ
ナノ
2006年6月8日19:38

★★紫音さんへ★★

紫音さん、こんばんは。コメントありがとうございます。

ご無沙汰していましたが、調子は如何でしょう・・・。とても
心配です。

私にも心の余裕が無くて、心が狭くなりいき虚しくなる事が
多々あります。本当に、もう少し心に余裕が出来て
豊かな心で足元を見つめる事が出来れば良いですね。

それではお体に気をつけて下さいね。