磐石な壁の前に立ち竦む。
2006年5月14日 想い コメント (4)今日は母の日である。年に一度、このような素晴らしい日がある
という事は有難い。日頃は照れ臭くて言えない事も出来ない事も
自然に行なえる。
何にもない日に母にお花をプレゼントできるであろうか。
感謝の言葉と心を込めた手紙を自然に渡せるであろうか。
私は、母に日頃から本当に感謝の念を抱いている。口頭では
容易に「ありがとう」「ごめんね」と言えるのであるが、
言葉は時間と共に流れて行ってしまう。其処に留まる事は無い。
小さい頃、母はとても恐い存在であった。いつも見張られている
ような気がして、一時たりとも気を抜けなかった。油断して
失敗など仕出かしたりすると、殴打が待っていたのであるから。
いつの間にか甘える事等出来なくなって、母と私の間にそびえる
壁は年を経る毎に磐石なものになった。
しかし今の母はそんな昔の恐さなど片鱗もない。優しさと
大らかさで一杯である。きっとこれが本来の母の姿であろうと
強く感じる。『子どもの為なら』と言う姿勢で
生きている。
母は、私が12歳の時に離婚した。その後、私達3人の子どもを
1人で育ててきた。今まで本当に色々な事があった。やっと
少し落ち着いた環境で過ごせるようになってきたのである。
特に妹は、中学生になってからぐれてしまった為、大変だった。
母は何度警察に身元引取りに行ったか分からない。
警察に何度も頭を下げる日々を過ごした事もあった。
しかしそんな妹も一児の母となり、もうすぐ3歳になる娘の
子育てに大変な思いをしているのであろう。
私は常に『お姉ちゃん』と言う立場で
甘えは許されなかった為、我慢に我慢を重ねて『良い子』で
なければならなかった。それは母に心配をかけないためという
理由がある。その間妹も弟もやりたい放題で正直羨ましい気持ち
が少しあった。色んなフラストレーションや行き違いが生まれ、
母との関係に磐石な壁が形成されて、成す術が無くなった。
そして私は病を患い、こうして動けない日々を送っている。
14歳で摂食障害を発病した時はそんな病名はまだメジャーで
無かった為に理解など全く得られなかった。
『食べ始めたら吐くまで止める事はできない』
なんて、普通では考えられないからであろう。毎日この症状に
苦しみ、でも弱音など漏らせず必死に勉強した日もあった。
そうして私は大学を卒業できた。ただ、私の目標は
『兎に角大学を卒業する事』
であった為、卒業した途端私は行く当てが無くなった。
一応派遣会社に登録して半年の契約で働いたものの、日毎に
酷くなる摂食障害と睡眠障害で体はボロボロになった。
その頃もまだこの病気のことは家族の誰にも理解を得られない
日々が続いた。
母が変わったと感じたのは、妹達が出戻りしてきて新しい彼氏を
毎晩家に泊めるようになってからである。女性だけの家に、
何処の馬の骨とも分からない男が毎晩狭い家に泊まりこむ事は
母と私に多大なるストレスを与えた。その事で諍いを起こし
妹達は罵詈雑言を私に向けて浴びせて出て行った頃から、
母と2人暮らしの生活が始まった。その頃までは、本当に
母との間に出来上がってしまった大きくそびえ立つ磐石な壁の
前に立ち竦む事しかできなかったが、段々素直になれた。
私が酷く苦しんでいる時、母に余裕があれば近付いて話を
聞いてくれるし、母の仕事の大変さ・愚痴・お話を私が聞くのも
習慣となった。そうして少しずつではあるが壁を破壊していく
作業が出来ているように思う。
兎に角今日は、母に感謝の念を存分に表現できる日である。
「お母さん、いつも心配ばかりかけてごめんね。
そしていつもありがとう。」
この言葉が伝えられただけでも、私は良かったと思っている。
という事は有難い。日頃は照れ臭くて言えない事も出来ない事も
自然に行なえる。
何にもない日に母にお花をプレゼントできるであろうか。
感謝の言葉と心を込めた手紙を自然に渡せるであろうか。
私は、母に日頃から本当に感謝の念を抱いている。口頭では
容易に「ありがとう」「ごめんね」と言えるのであるが、
言葉は時間と共に流れて行ってしまう。其処に留まる事は無い。
小さい頃、母はとても恐い存在であった。いつも見張られている
ような気がして、一時たりとも気を抜けなかった。油断して
失敗など仕出かしたりすると、殴打が待っていたのであるから。
いつの間にか甘える事等出来なくなって、母と私の間にそびえる
壁は年を経る毎に磐石なものになった。
しかし今の母はそんな昔の恐さなど片鱗もない。優しさと
大らかさで一杯である。きっとこれが本来の母の姿であろうと
強く感じる。『子どもの為なら』と言う姿勢で
生きている。
母は、私が12歳の時に離婚した。その後、私達3人の子どもを
1人で育ててきた。今まで本当に色々な事があった。やっと
少し落ち着いた環境で過ごせるようになってきたのである。
特に妹は、中学生になってからぐれてしまった為、大変だった。
母は何度警察に身元引取りに行ったか分からない。
警察に何度も頭を下げる日々を過ごした事もあった。
しかしそんな妹も一児の母となり、もうすぐ3歳になる娘の
子育てに大変な思いをしているのであろう。
私は常に『お姉ちゃん』と言う立場で
甘えは許されなかった為、我慢に我慢を重ねて『良い子』で
なければならなかった。それは母に心配をかけないためという
理由がある。その間妹も弟もやりたい放題で正直羨ましい気持ち
が少しあった。色んなフラストレーションや行き違いが生まれ、
母との関係に磐石な壁が形成されて、成す術が無くなった。
そして私は病を患い、こうして動けない日々を送っている。
14歳で摂食障害を発病した時はそんな病名はまだメジャーで
無かった為に理解など全く得られなかった。
『食べ始めたら吐くまで止める事はできない』
なんて、普通では考えられないからであろう。毎日この症状に
苦しみ、でも弱音など漏らせず必死に勉強した日もあった。
そうして私は大学を卒業できた。ただ、私の目標は
『兎に角大学を卒業する事』
であった為、卒業した途端私は行く当てが無くなった。
一応派遣会社に登録して半年の契約で働いたものの、日毎に
酷くなる摂食障害と睡眠障害で体はボロボロになった。
その頃もまだこの病気のことは家族の誰にも理解を得られない
日々が続いた。
母が変わったと感じたのは、妹達が出戻りしてきて新しい彼氏を
毎晩家に泊めるようになってからである。女性だけの家に、
何処の馬の骨とも分からない男が毎晩狭い家に泊まりこむ事は
母と私に多大なるストレスを与えた。その事で諍いを起こし
妹達は罵詈雑言を私に向けて浴びせて出て行った頃から、
母と2人暮らしの生活が始まった。その頃までは、本当に
母との間に出来上がってしまった大きくそびえ立つ磐石な壁の
前に立ち竦む事しかできなかったが、段々素直になれた。
私が酷く苦しんでいる時、母に余裕があれば近付いて話を
聞いてくれるし、母の仕事の大変さ・愚痴・お話を私が聞くのも
習慣となった。そうして少しずつではあるが壁を破壊していく
作業が出来ているように思う。
兎に角今日は、母に感謝の念を存分に表現できる日である。
「お母さん、いつも心配ばかりかけてごめんね。
そしていつもありがとう。」
この言葉が伝えられただけでも、私は良かったと思っている。
コメント
素敵な母の日になったようで良かったですね。
私が母と少し近づけたと感じたのは
やはり結婚を考えた彼と別れた時ですね・・。
今でも思うと胸が痛みますが、あの時母をとって
良かったと思います。
それからは私一人が母の理解者となり、母は鬱を乗り越え
ました。その間、妹と父は好き勝手やっていたため
距離が縮まったのです。
そうは言ってもやはり「心配をかけたくない」という
思いと甘え方を知らないせいか、今でもギリギリまで
自分で頑張ってしまいますけどね^^;
鬱経験者の母は今の私の一番の理解者であり、
母としての愛情を今は感じる事ができます。
とても嬉しい事ですね^^
お互い徐々に壁を崩し、甘え上手になりましょう(笑)
私は母と新しい関係を模索し、構築中です。いつ完成するかわかりませんが、でも母に感謝する気持ちは、たとえどんな状況であろうと変わりません。一日も早く本当の意味において母娘となりたいです^^
ナノさんが素敵な日をお過ごしになれた事が嬉しいです^^
勿論症状でお辛い事が沢山あるとは思いますが、お母様と素敵な時間をお過ごしになれた事を本当に我が事の様に喜んでいます^^
良かったですね^^ナノさん^^
ミルクさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
お母様との事・・・ミルクさんとお母様は強い絆で結びついて
いらっしゃるのですね。ミルクさんがお母様の為に一緒に
鬱を乗り越えられたという事、素晴らしいと思います。
そしてそのお母様が今ミルクさんの理解者なのですね。
甘え上手になる事は大変難しい事かもしれませんが、
お互い素直に『母親』という存在に感謝し、支え、支えられ
生きていきたいものですね^^
まるこさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
お陰さまでとても心温まる母の日となりました。
本当、日頃から感謝の気持ちは持ち続けていますが、
それを直接伝える為の大切な日だと実感しています。
まるこさんがこれからお母様と新しい関係を構築していき、
本当の意味の素敵な母娘となれる時間をゆっくり模索して
いって頂きたいと思います。
私の中にも僅かな蟠りが残っていますが、今はそれよりも
母への感謝の気持ちが勝っています。
そして私が母と良い時間を過ごせたのをご自分の様に感じて
下さった事がとてもありがたいです。
お互いゆっくりとやっていきましょうね^^