摂食障害を患ったのは、14歳の頃であった。
きっかけはダイエットである。しかし、患う前兆はダイエット
だけでは無かったように思う。
両親が離婚する前、完璧な家庭内別居であった。そして母は
離婚に向けて準備する為、私達子どもを連れて母の妹の家へ
避難した。勿論母の妹は結婚していて、弟と同い年の女の子と、
その子の2つ下の男の子がいた。親戚である。母の妹夫婦の仲は
円満であった。それは12歳の頃の出来事である。
私は成長期でもあった為か、食べる量が段々増えていった。
母の妹夫婦はよく夕食をファーストフードで済ませたり、外食へ
行ったりするので、多分その頃から体重は増えていたであろう。
その親戚家族と暮らしたのは中1の夏休み1ヶ月程度であったと
記憶しているが、凄く遠慮して過ごさねばならなかった。
何しろ自分の家で無いという事だけでもストレスなのに、
家族以外と居住を共にするというのは知らぬ内に申し訳なさも
感じていた。
しかし、そのように過ごす内、親の離婚話が進んでくれる事が
とても嬉しかった事を覚えている。調停離婚だったのでその間
母は何度も家裁に足を運んでいたし、新たに住む家を
探していた。
また、夜中に父の兄弟や親戚中から嫌がらせとも思える
罵詈雑言に満ちた電話がかかってくる事もあり、母の妹夫婦にも
多大なる迷惑をかけてしまった。
妹や弟はまだ幼かった為、そういう事に無頓着であったが、
私はある程度知識を身に付けていた頃であったので、あらゆる
トラブルが起きる度に胸が痛んだ。そうする内に自分の
満腹中枢がイカレ始めている事に気づいた。どれだけ食べても
満腹感は得られない。間食こそ全くしなかったが、
ファーストフードで夕食を済ませる時に皆が残した分を私が
食べて片付けた事もあった。それでも胃に違和感もなく
夜になるとこれからの生活の事に悩み蒲団の中で泣いていた。
12歳ながら、親達大人の行動を全て察知していて耳年増に
なっていたから、色んな事を知り得ていたが、大人達は
「まだ○●ちゃんには分からない事よね」と話してかけてきた。
私は調子を合わせ、何も知らない子どもの振りをしていた。
そして、周りの大人達からは
「これからはあなたがお母さんを支えて
兄弟の面倒を見なさい」
ときつく言いつけられていた。それが自分の義務であり、
それこそ自分の役目だと思った。考えればそれが私を呪縛する
事柄であったと今更ながら気付いた。大人に頼る事ができない、
私が母を助け妹と弟の面倒を見て頑張らなければならないという
状態。そこに『普通の優しさ』などは
転がっていなかった。
閑話休題。タイトルの「我慢するという事」と言うのは、
『食べる事を我慢する』という意味を含めたものである。
14歳で摂食障害を患ってから、ずっと食べるのを我慢する
なんて出来なかった。普通の食事量に留める事など出来ず、
嘔吐する寸前まで自分の意志に反して胃に詰め込んでいた。
それは去年初め辺りまで続き、最早食事の時間に関係なく、
起床すれば先ず過食をし始めて嘔吐し、少し休んだらまた過食を
始める・・・と言った具合であった。大学へ行っている時、
仕事をしている時だけが過食嘔吐から離れていられる時間。
家に帰ったらまた疲れ果て眠るまで過食嘔吐は連続して続いた。
それが、今は(うつ病の影響もあるのであろうが)食べる事を
我慢する事ができるようになった。しかしそれは日中に限る。
土曜日以外は日中に過食嘔吐をする事は無い。我慢している
部分があるのは否めないが、
『兎角食べる事が面倒臭い』
と感じるのである。無理矢理口に押し込めて食べ物を食べ、
それらを全て嘔吐するには物凄い体力と気力が必要である。
全てが終わった後は動けないほど疲弊しきっている。
そうなると自分が組み立てた1日のスケジュール通りに動けず
苛々が生じてしまう。
日中我慢できるのであるから、本当なら夜も過食嘔吐など
したくないと強く思う。けれども、夜はお酒を飲んでしまうので
きっと我慢するという抑制がとれてしまうのであろう。それに
日中飢餓状態で過ごすからか、夜になると食べたくて仕方なく
なるのである。そして唯「食べたい」という気持ちだけ
ではなく、兎に角心に空いた大きな穴を埋める為に食べ物で
仮埋めしたいと思うのである。でも心に食べ物なんて異質のもの
であるし、食べ物で心の穴なんて塞がる訳もないし、
何より吐く寸前まで詰め込むのであるから吐かないでは
いられない。
思えば、妹や弟が生まれた頃から自分が我慢すると言う事が
当たり前のようになっていた。自分の欲求など口に出したとて
通る事など無いと知ったその頃から、我慢ばかり重ねていた。
きっと無理な我慢と言うものはいつか違う形、例えば病気等で
爆発してしまうのではないかと感じる。
そして私の場合、それが摂食障害という病気であった。
散文的になってしまったが、今日、自分の摂食障害について
理解を少しだけ深める事ができたように感じる。
きっかけはダイエットである。しかし、患う前兆はダイエット
だけでは無かったように思う。
両親が離婚する前、完璧な家庭内別居であった。そして母は
離婚に向けて準備する為、私達子どもを連れて母の妹の家へ
避難した。勿論母の妹は結婚していて、弟と同い年の女の子と、
その子の2つ下の男の子がいた。親戚である。母の妹夫婦の仲は
円満であった。それは12歳の頃の出来事である。
私は成長期でもあった為か、食べる量が段々増えていった。
母の妹夫婦はよく夕食をファーストフードで済ませたり、外食へ
行ったりするので、多分その頃から体重は増えていたであろう。
その親戚家族と暮らしたのは中1の夏休み1ヶ月程度であったと
記憶しているが、凄く遠慮して過ごさねばならなかった。
何しろ自分の家で無いという事だけでもストレスなのに、
家族以外と居住を共にするというのは知らぬ内に申し訳なさも
感じていた。
しかし、そのように過ごす内、親の離婚話が進んでくれる事が
とても嬉しかった事を覚えている。調停離婚だったのでその間
母は何度も家裁に足を運んでいたし、新たに住む家を
探していた。
また、夜中に父の兄弟や親戚中から嫌がらせとも思える
罵詈雑言に満ちた電話がかかってくる事もあり、母の妹夫婦にも
多大なる迷惑をかけてしまった。
妹や弟はまだ幼かった為、そういう事に無頓着であったが、
私はある程度知識を身に付けていた頃であったので、あらゆる
トラブルが起きる度に胸が痛んだ。そうする内に自分の
満腹中枢がイカレ始めている事に気づいた。どれだけ食べても
満腹感は得られない。間食こそ全くしなかったが、
ファーストフードで夕食を済ませる時に皆が残した分を私が
食べて片付けた事もあった。それでも胃に違和感もなく
夜になるとこれからの生活の事に悩み蒲団の中で泣いていた。
12歳ながら、親達大人の行動を全て察知していて耳年増に
なっていたから、色んな事を知り得ていたが、大人達は
「まだ○●ちゃんには分からない事よね」と話してかけてきた。
私は調子を合わせ、何も知らない子どもの振りをしていた。
そして、周りの大人達からは
「これからはあなたがお母さんを支えて
兄弟の面倒を見なさい」
ときつく言いつけられていた。それが自分の義務であり、
それこそ自分の役目だと思った。考えればそれが私を呪縛する
事柄であったと今更ながら気付いた。大人に頼る事ができない、
私が母を助け妹と弟の面倒を見て頑張らなければならないという
状態。そこに『普通の優しさ』などは
転がっていなかった。
閑話休題。タイトルの「我慢するという事」と言うのは、
『食べる事を我慢する』という意味を含めたものである。
14歳で摂食障害を患ってから、ずっと食べるのを我慢する
なんて出来なかった。普通の食事量に留める事など出来ず、
嘔吐する寸前まで自分の意志に反して胃に詰め込んでいた。
それは去年初め辺りまで続き、最早食事の時間に関係なく、
起床すれば先ず過食をし始めて嘔吐し、少し休んだらまた過食を
始める・・・と言った具合であった。大学へ行っている時、
仕事をしている時だけが過食嘔吐から離れていられる時間。
家に帰ったらまた疲れ果て眠るまで過食嘔吐は連続して続いた。
それが、今は(うつ病の影響もあるのであろうが)食べる事を
我慢する事ができるようになった。しかしそれは日中に限る。
土曜日以外は日中に過食嘔吐をする事は無い。我慢している
部分があるのは否めないが、
『兎角食べる事が面倒臭い』
と感じるのである。無理矢理口に押し込めて食べ物を食べ、
それらを全て嘔吐するには物凄い体力と気力が必要である。
全てが終わった後は動けないほど疲弊しきっている。
そうなると自分が組み立てた1日のスケジュール通りに動けず
苛々が生じてしまう。
日中我慢できるのであるから、本当なら夜も過食嘔吐など
したくないと強く思う。けれども、夜はお酒を飲んでしまうので
きっと我慢するという抑制がとれてしまうのであろう。それに
日中飢餓状態で過ごすからか、夜になると食べたくて仕方なく
なるのである。そして唯「食べたい」という気持ちだけ
ではなく、兎に角心に空いた大きな穴を埋める為に食べ物で
仮埋めしたいと思うのである。でも心に食べ物なんて異質のもの
であるし、食べ物で心の穴なんて塞がる訳もないし、
何より吐く寸前まで詰め込むのであるから吐かないでは
いられない。
思えば、妹や弟が生まれた頃から自分が我慢すると言う事が
当たり前のようになっていた。自分の欲求など口に出したとて
通る事など無いと知ったその頃から、我慢ばかり重ねていた。
きっと無理な我慢と言うものはいつか違う形、例えば病気等で
爆発してしまうのではないかと感じる。
そして私の場合、それが摂食障害という病気であった。
散文的になってしまったが、今日、自分の摂食障害について
理解を少しだけ深める事ができたように感じる。
コメント
私の好きな人江原啓之さんの本の中で愛の電池切れという言葉があります(宗教ではないですよ)
電池切れだと 電池を充電しようと過食したりいらない買い物をしたり問題行動をしたりするということがかかれているのですが 最近本当だな・・・とかんじます。
ナノさんがご両親の離婚に直面し 生活もかわり
無償の愛をもらえるはずの ご両親からの愛がとぎれ
そのうえまわりから ご兄弟の面倒をしっかりみるようにいわれ 自分が与えるがわにならなければならなかったことが
ナノさんの心の愛の電池切れにつながったのではないかと
私は思いました。
電池切れは辛く孤独です。
14歳とまだ大人でも子供でもない時期に自分ひとりで
ふんばってがんばってきたのですね・・・
このことを乗り越えていくことが ナノさんの生きる課題かもしれませんが 人は人からしか電池の充電ができません。
ひとりでがんばらず 人に頼りながら優しさをもらいながら充電していってくださいね
応援しています(^^)
お互い自分を痛めつけないように生きたいですよね・・・
前に書いたかもしれないけれどナノさんが苦しい時は背中をさすりましょう。辛いときには肩を抱きましょう。泣きたい時は泣ききるまで待ってるよ。
一人じゃないってこと忘れないでね^^ 紫音より
yuyuさん、温かいコメントをありがとうございます。
江原啓之さんの事は存じています。毎週、『オーラの泉』を
観ています。
【愛の電池切れ】・・・成程、そう考えると自分に当て嵌まる事が多いと感じます。確かに私の心は電池が切れたかのように凝り固まり何も受け入れられなくて作動していないように思います。無償の愛をもらえるのは親からしかありませんからね・・・それが小学生の時に途絶えたままなのかもしれません。今は母から少しずつ充電させてもらっている形です。
とても為になるお話しをありがとうございました。
yuyuさんもゆっくりと愛の電池を充電できると良いですね^^
紫音さん、いつも私の体のことを心配してくださり、ありがとうございます。
紫音さんの仰る通り、過食嘔吐によって精神のバランスを保っている状態です。主治医もそのように言っていました。
確かにその一時は均衡を保てても、やがて直ぐに崩れるのは分かるのですが・・・他に方法が無いので仕方が無いですね。
私もリストカットによって自分を痛めつけそうする事によって罪を贖っている感覚に陥っている時期がありました。今でも左手首はボコボコになっています。
本当、お互い自分を痛めつけすぎる事のないような生き方をしたいものですね。
最後の温かい言葉、胸に沁みます。紫音さんも一人じゃないですよ。こうやって文字の世界でしか表現できませんが、ずっと見守っています。