今こうして病気と立ち向かい、闘う事が出来るのは、周囲の
人達のおかげである。理解を示してくれる事で、どれだけ救われ
ているか分からない。特に動けなくて役立たずの私を、
責める事無く見守ってくれている母には本当に感謝している。
カウンセラーや主治医も助言を与えて下さり、より良い方向
へ歩いていけるようにと一緒に考えて下さる。しかし子どもの頃
から大人の辛辣な批判や批評に晒されて環境で育って来た為、
優しい言葉を掛けられると、どう反応したらいいのか判らない
上、素直に受け止める事ができない。困惑してしまうのである。
数年前に比べたら、その困惑は薄れてきているものの、
「私には勿体無い言葉だ」と思い、わだかまりが残る。
毎日毎日食べては吐き、お薬を服用しないと途端に精神の調子を
崩し、身体を自ら痛めつけている、そんな卑小な私を支えて
下さる人々には感謝の念を表現しきれない程本当にありがたく
思っている。
ただ綺麗になりたいが為に始めたダイエット。
それがまさか長年に渡る摂食障害に繋がるなんて思いもよらな
かった。勿論ダイエットが『きっかけ』に過ぎない神経症の
発症であるが、そうでなくとも思春期の私の状態ではやがて
心が破綻していただろうと感じる。つまり、摂食障害の症状で
私は何とか自分を保っているのであろうと感じている。
最初の内は、家族に「吐く位なら食べるな」「吐くな」と
責められたり、あらゆる食べ物を隠されたりした。
それでも私は見つけ出し、見つからないようにびくびくしながら
胃に詰め込み、嘔吐した。
それが今や母は、動けない私の代わりに病院へお薬を取りに
行ってくれて、主治医と話をして「どのように接すればいいか」
等相談もしてくれている。病気の苦しさに変わりは無いけれど、
幾分心が和やかになる時間が増えた気がする。
本当にありがたいと思う。
今こうして生きていられるのは、母のお蔭といっても過言では
無い。そして私を支えて下さる周囲の方々・・・。
私はシャワーを浴びながらその人達の顔を1人1人思い出し、
感謝の念を抱くようになった。
けれども相反して病気の苦しみから逃れたい為に、『死』を
願う事もある。母を始め祖父や祖母、カウンセラーや主治医は
「生きなさい」「死なれたら悲しい」と私に言う。
でも抑うつ状態でいると何もかも嫌になり、病気の自分を
煩わしく思う。私さえいなくなれば皆幸せになるに違いないと
感じる。大切な人を苦しめているという罪悪感。生きている
だけで迷惑をかける自分。どうしても自分が生きている事の
価値など見出せない・・・。
毎日、シャワーを浴びて身体を綺麗にした後、座椅子に深く
腰掛けリラックスしていると、頭に思い浮かぶ私を支えて
下さる方達に心の中で「本当にありがとうございます」と呟く。
しかし薬効が切れて脳の中の蟲が蠢動し始めると、
ノイローゼになりそうな程に「もう嫌だ!!」とのたうち、
死を切望するようになる。この両極端な思考は癖のようなもので
変えられない。
自分はつくづく『All Or Nothing』の思考が出来上がっている
のだなと痛感する。過食嘔吐にしても、1口食べてしまったら
それは即過食に繋がり、嘔吐するまで止まらない。だから
過食をしないでいる為には、飲み物は許せても、固形物は何も
口に出来ない。所謂拒食状態である。過食か拒食かどちらかに
揺れ動く1日。そんな虚しい日々を送っている。
けれど、感謝の念を抱いている時だけは、拒食も過食も関係ない
次元にいる。唯唯ありがたく思い、涙が出てくる。
焦っても病気は治癒しない事は解っている。
『死ぬ事によって全ての苦しみから逃れられる』という甘美な
誘惑に負けそうになるが、私は生きなければならないので
あろうと感じている。
そして。温かいコメントをして下さるまるこさんや紫音さんに
「本当に感謝しています」という言葉を残したい。
人達のおかげである。理解を示してくれる事で、どれだけ救われ
ているか分からない。特に動けなくて役立たずの私を、
責める事無く見守ってくれている母には本当に感謝している。
カウンセラーや主治医も助言を与えて下さり、より良い方向
へ歩いていけるようにと一緒に考えて下さる。しかし子どもの頃
から大人の辛辣な批判や批評に晒されて環境で育って来た為、
優しい言葉を掛けられると、どう反応したらいいのか判らない
上、素直に受け止める事ができない。困惑してしまうのである。
数年前に比べたら、その困惑は薄れてきているものの、
「私には勿体無い言葉だ」と思い、わだかまりが残る。
毎日毎日食べては吐き、お薬を服用しないと途端に精神の調子を
崩し、身体を自ら痛めつけている、そんな卑小な私を支えて
下さる人々には感謝の念を表現しきれない程本当にありがたく
思っている。
ただ綺麗になりたいが為に始めたダイエット。
それがまさか長年に渡る摂食障害に繋がるなんて思いもよらな
かった。勿論ダイエットが『きっかけ』に過ぎない神経症の
発症であるが、そうでなくとも思春期の私の状態ではやがて
心が破綻していただろうと感じる。つまり、摂食障害の症状で
私は何とか自分を保っているのであろうと感じている。
最初の内は、家族に「吐く位なら食べるな」「吐くな」と
責められたり、あらゆる食べ物を隠されたりした。
それでも私は見つけ出し、見つからないようにびくびくしながら
胃に詰め込み、嘔吐した。
それが今や母は、動けない私の代わりに病院へお薬を取りに
行ってくれて、主治医と話をして「どのように接すればいいか」
等相談もしてくれている。病気の苦しさに変わりは無いけれど、
幾分心が和やかになる時間が増えた気がする。
本当にありがたいと思う。
今こうして生きていられるのは、母のお蔭といっても過言では
無い。そして私を支えて下さる周囲の方々・・・。
私はシャワーを浴びながらその人達の顔を1人1人思い出し、
感謝の念を抱くようになった。
けれども相反して病気の苦しみから逃れたい為に、『死』を
願う事もある。母を始め祖父や祖母、カウンセラーや主治医は
「生きなさい」「死なれたら悲しい」と私に言う。
でも抑うつ状態でいると何もかも嫌になり、病気の自分を
煩わしく思う。私さえいなくなれば皆幸せになるに違いないと
感じる。大切な人を苦しめているという罪悪感。生きている
だけで迷惑をかける自分。どうしても自分が生きている事の
価値など見出せない・・・。
毎日、シャワーを浴びて身体を綺麗にした後、座椅子に深く
腰掛けリラックスしていると、頭に思い浮かぶ私を支えて
下さる方達に心の中で「本当にありがとうございます」と呟く。
しかし薬効が切れて脳の中の蟲が蠢動し始めると、
ノイローゼになりそうな程に「もう嫌だ!!」とのたうち、
死を切望するようになる。この両極端な思考は癖のようなもので
変えられない。
自分はつくづく『All Or Nothing』の思考が出来上がっている
のだなと痛感する。過食嘔吐にしても、1口食べてしまったら
それは即過食に繋がり、嘔吐するまで止まらない。だから
過食をしないでいる為には、飲み物は許せても、固形物は何も
口に出来ない。所謂拒食状態である。過食か拒食かどちらかに
揺れ動く1日。そんな虚しい日々を送っている。
けれど、感謝の念を抱いている時だけは、拒食も過食も関係ない
次元にいる。唯唯ありがたく思い、涙が出てくる。
焦っても病気は治癒しない事は解っている。
『死ぬ事によって全ての苦しみから逃れられる』という甘美な
誘惑に負けそうになるが、私は生きなければならないので
あろうと感じている。
そして。温かいコメントをして下さるまるこさんや紫音さんに
「本当に感謝しています」という言葉を残したい。
コメント
何だか恐縮です・・私の方こそいつも温かいお言葉を頂いて、本当にナノさんには感謝しています。ナノさんのみならず、こうしてこんな私と繋がって下さっている皆さんに心から感謝しています。ネットとか日記とか、文字でのコミニュケーションですが、単なる文字ではない「温もり」をいつも感じています。私がこうしてかろうじて生きていれるのも、きっとそんな温かさを下さる皆さんや家族のお陰だと思います。本当にナノさんと出会えて良かった^^
どうぞマヌケな私ですが今後ともよろしくお願いします。
そして同志として、諦める事なくお互いの幸せを追求して生きていきましょうね^^ナノさん・・本当にありがとうございます^^
生きるってこんなにも難しい。
死ぬのだって難しい。
ナノさん無理することないんだから
時には立ち止まり周りの風景眺めたりして
進んで生きましょうね^^ 紫音でした
まるこさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
私も暗く落ち込んでいる時に、此処で繋がってくださる人達の温かさに本当に救われているのです。
まるこさん自身もとてもツライ思いをしているのに、私の事を慮って下さっていること、本当に感謝の一言に尽きます。
同志としてゆっくりと前へ向いていきましょうね。
そしてこちらこそ本当にありがとうございます!
★★紫音さんへ★★
紫音さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
私が昨日紫音さんの日記にコメントを残す時、その非道なコメントを拝見しました。何というか・・・面と向かって何も言えないのに匿名であんなコメントを残す人、心が狭いとしか思えませんね。でも、随分紫音さんは傷付いたと思います。大丈夫でしたか・・・?
本当、生きるのって凄く難しいと感じます。また、死ぬとなると恐怖や苦しみが一度に襲ってきて「失敗したら・・・」と考えると容易に行動には移せませんね。
あと10日もしたら至る所で桜が咲くのかもしれませんね。その愛らしさに心を和まされつつやっていきましょうね。