ただ、息を繋いでいくだけ。
2006年1月16日 日常日毎、生きていること自体に苦しみを覚える。
しかし摂食障害の症状はまだ私に必要なものと痛感している。
どこかで何かのバランスをとっているのであろう。
私が存在するだけで発生する迷惑。食べ物は過食嘔吐するもの
としか捉えられない歪み。食べ物は私を太らせる憎いもの。
けれどもそれがないと生きてはいけない矛盾。
私が息を繋ぎ、生きている事は即ち周りへの多大な
負担とリスクを迷惑を撒き散らしていると言う事である。
だから生きている事は苦しくて、申し訳ない気持ちで一杯で
どうしたらいいのか困惑してしまう。
酷い認知の歪みがある事も承知している。
しかしこの固定観念となってしまった考えを容易く正すのは
難しいのである。
私は体重計に乗らないようにしているから、自分の体重は
知らない。知る事が恐いといった方が正しいであろう。
数値を知ってしまったら、『もっともっと』痩せようとする自分が目に見えるから。
しかし数値がどうであろうと、もっと痩せなくてはならない。
所持している洋服の全てがジャストフィットせず、ゆるゆるに
なるまで。
このような固定観念・認知の歪みの所為で過食嘔吐は悪化する。
日中食べ物を口にすることは許せない。
勿論空腹を感じる事はある。それを人口甘味料入りの
カフェオレで凌いだり、カロリーの低いスープで抑える。
治癒へ向かうようにと努力をすればいいのに、
未だ心に深い深いわだかまりと傷が醜く残っていて
それに囚われると、自分を滅茶苦茶に壊したくなる。
ひたすら空腹を我慢して身体が怠くなり動くのもしんどいという
状況で自分に苦行を課し、夜になれば無理矢理胃に食べ物を
詰め込んで吐くといった行為を繰り返す。
どちらも自分を壊しているような、傷つけているような感覚に
陥る。そうやって自分を罰しても、罪はもっと重くてそんな
ものでは償いきれない。
拒食や過食嘔吐以外の何かで心を癒せる楽しみみたいなものを
見つけられたら、何か変化はあるのであろうか。
一時期貪るように古本屋で大量に購入した文庫本を読んでいた。
気も紛れたし、そのサスペンスとミステリーで溢れた物語の中に
浸ることも出来た。
しかし、うつ状態が酷くなってからは本を開く事さえ苦痛に
なった。兎に角頭が働かない。身体が重く、沈鬱とした
気分から抜け出せない。
それまでは、幾ら落ち込むことはあれど、浮上出来ていた。
しかし今はもうずぶずぶと底なし沼に沈み行く思いである。
昨日の夜中、母からのお年玉が入っていたポチ袋を見つけた。
元旦に開けた時には気付かなかったが、其処にメッセージが
書かれているのを発見した。
●○ちゃんへ。
今はとても苦しいでしょうね。でもお母さんと半分分けすれば、していけば、少しでもいいなと思います。
・・・胸が熱くなり、涙が止まらなくなった。たった数行の
言葉であるが、こんなにも心配してくれて、慮ってくれていた
なんて・・・
私は昨日まで気付けなかった。その事が凄く申し訳ない。
でも、凄く嬉しかった。言葉一つ一つが胸に沁みて本当に
嬉しかった。
だけど、私はこうして息を繋いで生きていく事で精一杯である。
そして治癒への道さえ途方もなく長くて先も見えない。
いつまた落とし穴に突き落とされたり棗の道へと歩みを進たり
する事になるかも解らない。
人間関係。特に私の場合は母との関係こそが快復へ向かう
重要なヒントであると言える。
しかし解っていても、どう頑張っても過食嘔吐は止まらない。
拒食して身体を痛めつける事も止まない。
此処で私が何もかも棄てて『死んで楽になろう』なんて
思ったりしたりすれば本末転倒になってしまう。
そこまでがっちりと死んではいけない!
と周囲を否応にも固められてしまった。
逃げ場が無い。今は未だ優しく容認されている過食嘔吐も
何時また以前のように責め追い詰められる状況になるかも
知り得ない。
恐い。死ぬ事を感情面に訴えかけられ禁忌とされると・・・。
今まで「どうにもいかなくなったら死ねばよい」という
心の余裕というか逃げ場があったからどうにかやってきた。
或る事情で人間と関わるのが恐くなってから、外出すら
困難である。しかしこれも自分でどうにかするしか
ないのである。
此処は田舎だから社会に出る前の作業訓練所のような
場所も施設もない。
しかし摂食障害もうつも強迫神経症etc...も自らに起こっている
症状である。だから自分でどうにかしなければならない。
お薬を飲んで軽い眠気を覚え、頭の働きを鈍らせながら
ただただ息を繋いでいくしかないのである・・・。
しかし摂食障害の症状はまだ私に必要なものと痛感している。
どこかで何かのバランスをとっているのであろう。
私が存在するだけで発生する迷惑。食べ物は過食嘔吐するもの
としか捉えられない歪み。食べ物は私を太らせる憎いもの。
けれどもそれがないと生きてはいけない矛盾。
私が息を繋ぎ、生きている事は即ち周りへの多大な
負担とリスクを迷惑を撒き散らしていると言う事である。
だから生きている事は苦しくて、申し訳ない気持ちで一杯で
どうしたらいいのか困惑してしまう。
酷い認知の歪みがある事も承知している。
しかしこの固定観念となってしまった考えを容易く正すのは
難しいのである。
私は体重計に乗らないようにしているから、自分の体重は
知らない。知る事が恐いといった方が正しいであろう。
数値を知ってしまったら、『もっともっと』痩せようとする自分が目に見えるから。
しかし数値がどうであろうと、もっと痩せなくてはならない。
所持している洋服の全てがジャストフィットせず、ゆるゆるに
なるまで。
このような固定観念・認知の歪みの所為で過食嘔吐は悪化する。
日中食べ物を口にすることは許せない。
勿論空腹を感じる事はある。それを人口甘味料入りの
カフェオレで凌いだり、カロリーの低いスープで抑える。
治癒へ向かうようにと努力をすればいいのに、
未だ心に深い深いわだかまりと傷が醜く残っていて
それに囚われると、自分を滅茶苦茶に壊したくなる。
ひたすら空腹を我慢して身体が怠くなり動くのもしんどいという
状況で自分に苦行を課し、夜になれば無理矢理胃に食べ物を
詰め込んで吐くといった行為を繰り返す。
どちらも自分を壊しているような、傷つけているような感覚に
陥る。そうやって自分を罰しても、罪はもっと重くてそんな
ものでは償いきれない。
拒食や過食嘔吐以外の何かで心を癒せる楽しみみたいなものを
見つけられたら、何か変化はあるのであろうか。
一時期貪るように古本屋で大量に購入した文庫本を読んでいた。
気も紛れたし、そのサスペンスとミステリーで溢れた物語の中に
浸ることも出来た。
しかし、うつ状態が酷くなってからは本を開く事さえ苦痛に
なった。兎に角頭が働かない。身体が重く、沈鬱とした
気分から抜け出せない。
それまでは、幾ら落ち込むことはあれど、浮上出来ていた。
しかし今はもうずぶずぶと底なし沼に沈み行く思いである。
昨日の夜中、母からのお年玉が入っていたポチ袋を見つけた。
元旦に開けた時には気付かなかったが、其処にメッセージが
書かれているのを発見した。
●○ちゃんへ。
今はとても苦しいでしょうね。でもお母さんと半分分けすれば、していけば、少しでもいいなと思います。
・・・胸が熱くなり、涙が止まらなくなった。たった数行の
言葉であるが、こんなにも心配してくれて、慮ってくれていた
なんて・・・
私は昨日まで気付けなかった。その事が凄く申し訳ない。
でも、凄く嬉しかった。言葉一つ一つが胸に沁みて本当に
嬉しかった。
だけど、私はこうして息を繋いで生きていく事で精一杯である。
そして治癒への道さえ途方もなく長くて先も見えない。
いつまた落とし穴に突き落とされたり棗の道へと歩みを進たり
する事になるかも解らない。
人間関係。特に私の場合は母との関係こそが快復へ向かう
重要なヒントであると言える。
しかし解っていても、どう頑張っても過食嘔吐は止まらない。
拒食して身体を痛めつける事も止まない。
此処で私が何もかも棄てて『死んで楽になろう』なんて
思ったりしたりすれば本末転倒になってしまう。
そこまでがっちりと死んではいけない!
と周囲を否応にも固められてしまった。
逃げ場が無い。今は未だ優しく容認されている過食嘔吐も
何時また以前のように責め追い詰められる状況になるかも
知り得ない。
恐い。死ぬ事を感情面に訴えかけられ禁忌とされると・・・。
今まで「どうにもいかなくなったら死ねばよい」という
心の余裕というか逃げ場があったからどうにかやってきた。
或る事情で人間と関わるのが恐くなってから、外出すら
困難である。しかしこれも自分でどうにかするしか
ないのである。
此処は田舎だから社会に出る前の作業訓練所のような
場所も施設もない。
しかし摂食障害もうつも強迫神経症etc...も自らに起こっている
症状である。だから自分でどうにかしなければならない。
お薬を飲んで軽い眠気を覚え、頭の働きを鈍らせながら
ただただ息を繋いでいくしかないのである・・・。
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