母への感謝

2006年1月6日 日常
三箇日もとっくに過ぎて、TV番組も徐々に普段通りになる中、
頭の中で日付や曜日、平成何年なのかという時間系列が至極
曖昧になっている。

今日が金曜日であることをさっきまで分からないでいた。
だからさっきTVを点けたら『くれ○んしんちゃん』が
放送されてて吃驚した。カレンダーを見てようやく落ち着いた。


昨日のトイレ問題。今日は母が仕事の帰りトイレの排水溝を
掃除するモップ(?を買ってきてくれたので、
取り敢えず一安心した。

詰まれば自分で掃除して綺麗にする事ができる。
これで嘔吐に関して母の手を煩わせる事が無くなる。良かった。

只問題なのはまた業者が浄水槽を見て吐瀉物が混ざっていると
大家に訴え、私の所へ怒鳴り込んでくるかもしれない事。

それを母に相談したら、「日中は鍵を閉めて居留守を使えば
いいよ」と言ってくれた。こうして自分が心身共に弱っている
時に母が思い遣りを持った態度で接してくれると安堵する。

確かに、子どもの頃は虐待に近い叱責があった。
鼻血を出した事も、痣が出るまで殴打された事も、
突然胸ぐらを掴まれて恐ろしさに過呼吸を起こした事もある。

けれどもその頃の母と比べればとげとげしさは全く無く、
寧ろ丸くなって私の病気のことを理解しようとしてくれている。

私は母が居るから生きていける。

その事を母に話すと、

「私も○●ちゃんがいるから生きていけるんだよ」

と言ってくれた。

時々機嫌の良し悪しで衝突する事もあるけれど、
私はこの言葉によって随分救われている。

客観的に見れば、私は毎日過食嘔吐をする為に過ごしており、
まさに摂食障害を全身で現していて、働きもせず、日中は
ずっと外に出られないで居る・・・即ち怠け者・情けない人と
言われても何も言い返せないのである。

それでも母は『生きていてくれるだけで良い』と
今にも崩れ落ちてしまいそうな私の脆弱な精神を
支えてくれる・・・。

私には妹と弟がいるが、妹は子ども連れで彼氏とアパートで
暮らしているし、弟はバイトをしながら彼女の家・父の家と
その時々によって休息する場所を変えて生きている。

昔から、私が母を守らねばならないと思ってきた。
それは父の母へ対する酷い束縛・罵り・罵詈雑言を吐く行為が
始まってからである。また父方の親戚全員が母を苛虐ていても
父は母を一切かばう事は無かった。

母はその事を激しく気に病み、相談できる相手もいなくて
一層自分を責めに責めて追い詰められていた。
それが爆発した時、母は包丁で手首を切った。

その場面を、私は見てしまった。
今でも突然その情景が目の前に浮かび上がり動けなくなる。

涙で顔を濡らした母の手首からは血が溢れていた。
夕刻の時、妹の勉強机でランプだけが点けられていて
母の姿が遠く小さく見えた。

私は階段を上っている途中で異変に気付きそっと部屋を覗いた。
身体が固まり、小学6年生の頭では

手首を切る=自殺、つまり死ぬ』

と思っていたので固まった身体を足を必死に前へ進めて母に
近付いていった。(良かった死んでいない・・・)と感じた。
そして母に頼まれた通り消毒液とティシューを渡し、

「大丈夫?痛い?」と声をかけた後自分の部屋に戻った。

そして私は誓った。私が父から母を守らねばならない。
母の味方は私だけだ。もっともっと言う事を聞く良い子であり
頑張らねばならないと。

でも毎日毎日響く父の怒鳴り声、罵声。恐ろしくてトイレで
泣いていた。母は何も悪くないのに粗探しをされ一方的に
威嚇され怒鳴りつけられている。そんな両親の姿を見ている
内に、私は神経性胃炎を患った。

焼け付くような胃の痛み。朝学校へ行く前にのた打ち回って
いたら、父は朝ごはんをかきこみながら私の様子を見て
鼻で笑いながら、「日頃の行いが悪いんだ。さっさと学校
行く用意しろ」と冷たく言い放った。

学校でも胃の痛みに苦しめられた。授業中に脂汗を滲ませながら
我慢していたが、耐えられず担任に申し出て保健室に行く許可を
もらったのだが、私が出て行った後、

「あれは情けない人間の象徴だ。たかが腹痛でバカだ。」
と言っていたと友達から伝え聞いた。
その先生は女はぐずぐずして女々しいから嫌いだ、男子は可愛い
と公言して憚らないオバサンだった。

そうして私は格好の餌食となり、卒業式の練習で酷く寒い
体育館で動く事が出来ない程の胃痛が起きて、それを訴えても

「それは自分が悪いんだろうが!そんな事私に言っても
困るんだよ。」


と怒鳴られた。学年全員の前でだったので恥ずかしかった。


だから、両親の離婚が決まった時、とても嬉しかった。
やっとあの毎日から脱却できる。父の罵声を聞かなくて済むと。

けれども私の心は限界を超えてしまったのであろう。

両親が離婚した後、周りの親戚等から
「あなたが母さんを支えなさい」と言う言葉を真に受け
忠実にこなしていたが無理が生じてきた。

でも、妹と弟の面倒を見て家事をして学校行って・・・。
夜はキッチンのテーブルで酔いつぶれる母の介抱をして。

パンク寸前だった私の心はいつしか破裂していたのだろう。
次第に心を病んでいくのが自分でも分かった。
でもその頃は今のように心の病気に対する理解はかなり薄く
気合が足りない、怠け者、もっと頑張れ、甘えるなetc...と

病に拍車をかけられた。そうしてダイエットをきっかけに
私の摂食障害は始まった。14歳の秋だった。


その時の母の態度を思い出すと、今は何て恵まれて
いるんだろうと感じざるを得ない。母は『過食嘔吐を
している状態の私』に本当に理解を示してくれるようになった。

此処まで来るには凄く長い道程だったけれど・・・。

そして毎日死ぬことを考えているけれど生きているのは
母の存在が大きく、また信頼できるカウンセラーと医者が
私の話に耳を傾けてくれて、丁度良いお薬の処方をしてくれて
いるおかげである。

人間は、誰にも甘えず生きていくことは出来ない。
そして、人に甘えると言う事も人間関係を築く上でとても
重要な事である。

しかし難しいのはその甘え方である。それが過ぎれば依存となり
自分じゃ何もやらなくなる本物の怠け者となってしまうし、
全く甘えないと言う態度は人を遠ざけてしまう。

心の病気を持った人は、この甘え方が分からずに上手く
いっていない人が多いと医者は言う。

私は徐々にでも母と支えあいながら、自殺を避けて生きていこう
と思っている。


私事ながら、お母さん、いつもありがとう。
心から感謝しています。
私はまだまだ弱くて情けない人間だけど、一緒に生きていきましょう。


24歳も終わりが近付き、やっと今になって母と上手く疎通が
図れるようになったように感じている。
母には心から感謝している。本当にありがとう。

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