診察が無いとツライ・・・
2006年1月3日コメント (2)年末・お正月は病院がお休みである。
今日まででカウンセリングが1回、診察が2回飛んだ。
これだけ日が開いてしまうと正直キツイものがある。
私が自分の苦しみや醜い部分を話せるのは先生方だけ。
その苦しく汚くツライ事を言葉にして伝える作業は
自分にとって大いに助かっている所があるのだと今更ながら
実感している。
「死にたい」「死ねばこの苦しみから解放される」と
何の遠慮もなく発する事ができるのは先生方だけ。
母にこんな事言うと悲しませてしまうから必死で堪えている。
『自分なんか何の価値も無い。消えてしまえ』
という気持ちは心の底にいつも存在して煮えたぎっている。
私から痩せた身体を取り払ったら空っぽな人間なのであろう。
私は中学2年の時から段々不登校の気配が見え始め、
3年生で完璧な不登校となった。
休みがちだったから勉強に付いて行けないし、友達も減り・・・。
何より番号付けられて狭い教室に40人も押し込まれている事に
激しい嫌悪感を抱いた。その上体育館では否応なしに
整列させられ、少しでも乱れていたら怒声が飛び交う。
マンモス校であった為全校生徒1000人近くで行われる、
朝礼などの集合は自分が卑小なモノに思えて仕方なかった。
それに中2の頃はまだ太っていたし・・・。
兎に角全ての人に合わせなければならない、乱れてはならない、
良い子でなければならないと押し付けられる事には限界を
感じた。そしてもう学校へは行きたくないと思うようになった。
無論、母は無理矢理学校へ行かせようとした。
私は行きたくなくて身体の具合が悪くなっても、蹴飛ばされたり
張り倒されたりしてまで行かざるを得なかった。
だから行く振りをして母が仕事に行った後引き返した。
その内、母は学校へ行く事を頑なに拒んだ私に根負けし、
厭味さえ言えど諦めたようだった。
けれど私もどこか背徳感は否めなかった。
学校にさえ行けなくて、その上こんなに醜く太って。
そして罪悪感さえ生まれた。
そんな中、中3の時ダイエットをしたのであった・・・それが
今も続く摂食障害のきっかけとなってしまったのであるが。
そしていつしか病的なまで『痩せ』に拘り『太る事』への
恐怖を覚えた。
勉強をしていなかったので、一旦服飾関係の専門学校へ進んだ。
けれども、高校卒業の資格を持たない者に世間の風は酷く
冷たかった。そして周りの説得もあり、薦められるがまま
1年遅れで高校を受験した。
摂食障害と世間の冷ややかさに疲れきっていて
自分で何かを決断する気力は無かった。
私は或る有名塾のフリーコースに毎日通い、まずは
中学3年間の基礎能力をつけ、遅れを取り戻した。
受験科目は英語・国語・数学だったので、それだけに
力を入れて基礎以上の能力を身に付けた。
それさえ努力していれば良かったし、結果高校に合格した。
でも毎日欠かさず繰り返される過食嘔吐は酷く身体を蝕み
高校で教室に閉じ込められる事も違和感を感じる余裕が無く、
ひたすら勉強に打ち込んだ。きっと感情面で麻痺が
生じていたのであろう。ただ、2年で進学クラスに入れられて
からは、1クラス20人だったので教室も広く感じ、
窒息しそうな締め付けられる空気からは逃れられて
幸運であったと言える。
こんな風に、私は余り普通の道を辿って来ていない。
その時その時だけ努力して必死に頑張って。
でも結局残ったのは大卒という資格と病気の心だけ。
空っぽで弱いアタマ。脆弱なココロ。
考えるのは自分が死んで楽になる事。
寂しい寂しいとほざいている暇があれば、自分の中身を磨き
人間関係に怖気付く事無く仕事を探し、世間の健康な同年代の
女の子たちのように、仕事に恋愛に遊びに楽しんだりして
健康的な悩みを抱きつつ生きてみたい。
でも今はまだ時期尚早なんだろう。
こうして1日を生きるだけでかなりの疲労感を覚えるのだから。
外出すらもままならない。動けない。前も向けない。
『〜〜ない』ばかりの私だけれど、カウンセラーは
「今はね。今は苦しいかもしれない。けれど長い目で見たら大分成長しているし変わってきている。それに将来何もかも駄目で可能性の無い人とはこんなに長く会い続けたりしませんよ」
と仰ってくれる。それが仕事上の言葉だとしても幾分心は
落ち着いてくる。
ほんの少し、その言葉に糸の細さ程度の希望を託し、
今日を生きる。辛酸を舐めながらも生きる。
でも[私なんかいなくなった方が、周りの人達はきっと幸せに
なるに違いない]という思いは取り払うことなどできはしない。
今日まででカウンセリングが1回、診察が2回飛んだ。
これだけ日が開いてしまうと正直キツイものがある。
私が自分の苦しみや醜い部分を話せるのは先生方だけ。
その苦しく汚くツライ事を言葉にして伝える作業は
自分にとって大いに助かっている所があるのだと今更ながら
実感している。
「死にたい」「死ねばこの苦しみから解放される」と
何の遠慮もなく発する事ができるのは先生方だけ。
母にこんな事言うと悲しませてしまうから必死で堪えている。
『自分なんか何の価値も無い。消えてしまえ』
という気持ちは心の底にいつも存在して煮えたぎっている。
私から痩せた身体を取り払ったら空っぽな人間なのであろう。
私は中学2年の時から段々不登校の気配が見え始め、
3年生で完璧な不登校となった。
休みがちだったから勉強に付いて行けないし、友達も減り・・・。
何より番号付けられて狭い教室に40人も押し込まれている事に
激しい嫌悪感を抱いた。その上体育館では否応なしに
整列させられ、少しでも乱れていたら怒声が飛び交う。
マンモス校であった為全校生徒1000人近くで行われる、
朝礼などの集合は自分が卑小なモノに思えて仕方なかった。
それに中2の頃はまだ太っていたし・・・。
兎に角全ての人に合わせなければならない、乱れてはならない、
良い子でなければならないと押し付けられる事には限界を
感じた。そしてもう学校へは行きたくないと思うようになった。
無論、母は無理矢理学校へ行かせようとした。
私は行きたくなくて身体の具合が悪くなっても、蹴飛ばされたり
張り倒されたりしてまで行かざるを得なかった。
だから行く振りをして母が仕事に行った後引き返した。
その内、母は学校へ行く事を頑なに拒んだ私に根負けし、
厭味さえ言えど諦めたようだった。
けれど私もどこか背徳感は否めなかった。
学校にさえ行けなくて、その上こんなに醜く太って。
そして罪悪感さえ生まれた。
そんな中、中3の時ダイエットをしたのであった・・・それが
今も続く摂食障害のきっかけとなってしまったのであるが。
そしていつしか病的なまで『痩せ』に拘り『太る事』への
恐怖を覚えた。
勉強をしていなかったので、一旦服飾関係の専門学校へ進んだ。
けれども、高校卒業の資格を持たない者に世間の風は酷く
冷たかった。そして周りの説得もあり、薦められるがまま
1年遅れで高校を受験した。
摂食障害と世間の冷ややかさに疲れきっていて
自分で何かを決断する気力は無かった。
私は或る有名塾のフリーコースに毎日通い、まずは
中学3年間の基礎能力をつけ、遅れを取り戻した。
受験科目は英語・国語・数学だったので、それだけに
力を入れて基礎以上の能力を身に付けた。
それさえ努力していれば良かったし、結果高校に合格した。
でも毎日欠かさず繰り返される過食嘔吐は酷く身体を蝕み
高校で教室に閉じ込められる事も違和感を感じる余裕が無く、
ひたすら勉強に打ち込んだ。きっと感情面で麻痺が
生じていたのであろう。ただ、2年で進学クラスに入れられて
からは、1クラス20人だったので教室も広く感じ、
窒息しそうな締め付けられる空気からは逃れられて
幸運であったと言える。
こんな風に、私は余り普通の道を辿って来ていない。
その時その時だけ努力して必死に頑張って。
でも結局残ったのは大卒という資格と病気の心だけ。
空っぽで弱いアタマ。脆弱なココロ。
考えるのは自分が死んで楽になる事。
寂しい寂しいとほざいている暇があれば、自分の中身を磨き
人間関係に怖気付く事無く仕事を探し、世間の健康な同年代の
女の子たちのように、仕事に恋愛に遊びに楽しんだりして
健康的な悩みを抱きつつ生きてみたい。
でも今はまだ時期尚早なんだろう。
こうして1日を生きるだけでかなりの疲労感を覚えるのだから。
外出すらもままならない。動けない。前も向けない。
『〜〜ない』ばかりの私だけれど、カウンセラーは
「今はね。今は苦しいかもしれない。けれど長い目で見たら大分成長しているし変わってきている。それに将来何もかも駄目で可能性の無い人とはこんなに長く会い続けたりしませんよ」
と仰ってくれる。それが仕事上の言葉だとしても幾分心は
落ち着いてくる。
ほんの少し、その言葉に糸の細さ程度の希望を託し、
今日を生きる。辛酸を舐めながらも生きる。
でも[私なんかいなくなった方が、周りの人達はきっと幸せに
なるに違いない]という思いは取り払うことなどできはしない。
コメント
私も年末年始の薬貰う時余りの混み具合に薬だけにしました。
4週間分なんで、今度の診察は1/14です
年内は良かったのですが・・・
今は正直診察行きたいですvv
確かに年末年始って有り得ない程の混雑でした。
私は診察時間が長いので一番後回しになるのですが、
物凄く暇を持て余してしまいました。置いてある雑誌は
医療事務の方の趣味からか、お料理系の本が多くて(^^;)
本当、診察の日程が開いてしまうと少し不安定になります。
私も診察日(1/10)が待ち遠しいですw