近い過去の苦しみ
2006年1月2日いつからだろう。リストカットと謂う自傷はしなくなった。
手首を切るのは気力や衝動が伴わないと出来ない。
私のリストカットは自戒の意味が大きく、一気に切り刻むから
アドレナリン全開で手首に己に対する憎しみを込めてやる。
心が不安定な時はリストカットに依存していた部分がある。
初めて手首を傷つけたのは中学1年生の時であった。
布を切る裁断鋏で切った。血は滲む程度で表皮が傷ついた
だけであった。そしてやがてはアームカットに変わっていった。
高校生の頃、様々な悩みを抱え病気に苦しんでいて
どうしようもない時、カッターで腕を切った。
幾分すっきりしていた。
その悩みの中には中々過食嘔吐が止められなかった事も含む。
その上でクラス・学年での成績を2位に保たなければ
ならなかった。
1人、男子に僅差で成績が敵わない人がいた。
私が高1の頃は、何故か私がずっと学年1位であったのだが、
彼が言うには勉強の楽しさに魅入られたという事だった。
実際、私が授業を抜けて精神科に診察へ行った時ノートを
借りたが、周りの女の子よりも遥かに解り易く効率的な
ノートの取り方をしていた。「こりゃぁ敵わん」と思った。
しかしまぁ、私の住む地域では最低レベルの学校だったから
私のレベルは大したものではない。
そして・・・。大学に行きながら働き、そこでまたストレスが
溜まっていった。家には学費を払うお金が無い。
だから学費免除の制度で卒業まで必死になるしかなかった。
けれど、高校以来ご無沙汰だった恋愛もできた。
彼は8歳年上でかなりのワーカホリックだったので
一緒に住んでいた彼のアパートに帰ってくるのは
午前2時〜3時は当たり前だった。
独り夜を過ごすのは余りにも寂しすぎ、アルコールに溺れ、
その勢いで腕を切るものだから日に日に酷くなっていった。
縫合さえしたことないが、未だに大きなケロイドとなって
残っている。勿論過食嘔吐も日増しに酷くなっていった。
そして大学の保健管理センターで睡眠薬や抗うつ剤、向精神薬、
抗不安薬をもらうようになった。それは量も種類も多く、
手先の震えが止まらないし、日中の眠気は酷く副作用が
かなり出てきていた。
元々ぼぉーっとした感じなのに、拍車がかかって
全てがぼんやりとした。
やがて彼氏とすれ違いが多くなり、一寸した事で彼は
壁を殴って見せ付けられたり、罵倒したりするようになった。
それでも彼の存在が恋しく寄り添っただけなのに、
「そんなにヤりたいならセックスフレンド作れば」と
冷たく言い放たれて・・・でも彼に縋っていた。
これこそ消したい過去の1つである人への依存である。
そして突然彼の部屋で別れの言葉を告げられ、
『もう自分は生きていても仕方ない、消えてしまおう』と
飲まずに溜めていた睡眠薬の類を100錠強白ワインで飲み干した。
気付けば在学していた大学の付属病院ICU。胃洗浄を
したとの事で鼻や口の周りが
活性炭で真っ黒でぱりぱりになっていた。そして活性炭は
下痢を起こして下からも薬の成分も出すので尿道カテーテルの
上にオムツをしていた。冷ややかな看護師が「下●便を漏らし
そうになったら言いなさいよ」と言い放ったが、数秒毎に
訪れる下腹部の痛み。側に看護師が居た訳でなくまだ薬の
所為で意識が混濁していたから言い出せず、オムツに
出してしまい、見つけられたら
「あれだけ先に言えっていったでしょうが!」と叱責された。
この事で母に多大な迷惑をかけてしまい、薬が抜け切らない頭で
必死に謝った。でも「死ねなかった」と絶望もした。
私はそれでも彼の事を忘れられず、「好き」という気持ちを
こちら側は残したままの別れだったので、
彼のアパートを訪れたり、話し合いの場を作って
もらおうとしたりと必死だった。一歩間違えばストーカーだ。
でもPCメールではっきりと「迷惑だしもう付き合っている
彼女がいるから」と告げられ傷は癒えぬまま諦めざるを
得なかった。
傷を癒してくれたのはやっぱり時間だけだった。
1年以上はかかった。そして突然訪れた身内の病気。
祖父が脳出血で倒れたのである。救急車で○赤に運ばれ
左脳前頭葉から広範囲にわたっての出血の為
予断を許さない、肺炎を併発したら覚悟してくださいと・・・。
それに祖母がいないと祖父は暴れた。家に帰せと。
祖母は退院まで病院で寝泊りする日が続き、苦しんでいた。
そうして祖父は少し程度の重い認知症を残したのみで半身麻痺
等の障害を残す事無く退院できた。
唯、入院中は一進一退の病状であったし自分の無力さを
突きつけられた感じを受けた為、何故かリストカットに走った。
『じいちゃんの苦しみがこの手首を切る事によって少しでも
和らげば』と。毎日右、左と欠かす事無く傷つけた。
今思うと根拠の無い馬鹿げた行為だと思うけれど、
それだけ必死だったんだって今は振り返る事が出来る。
そんなにも浸りきっていたリストカットの魔力から
抜け出る事が出来たひとつの原因に、姪の事がある。
ごっついリストカットをした時は携帯で撮り保存していた。
或る日髪を切って可愛くなった姪を携帯で撮った。
そして「見せて見せてぇ」とせがむ姪に撮った写真を見せよう
としたら、一緒に私の、幾つもの流血写真が映し出された。
「いけないっ!」と思ったが遅かった。
『ねえちゃん、痛い痛い?血?ねえちゃん痛い痛いの?』
こんな小さな子どもにまで悲しい思いをさせて自分は一体
なんて酷い事をしているんだと涙が出た。ショックだった。
これは止めなければならないと覚悟した。
そうする内に、気力も無くなり抑うつ状態が酷くなった事から
切る事は無くなった。
リストカットする時にはセッティングしなければならない物が
ある。血を受け止める新聞紙・剃刀・消毒液・ティシュー・包帯
等。揃えるのも面倒。ならば止めてしまえとも思えた。
時を同じくして妹の彼氏が毎日家に泊まりこむのを母が注意し
追い出し、それに伴い妹と姪も出て行き、妹の友達が毎晩
夜中過ぎまで居座る事も無くなった。
私にも心の安定が危ういながらも訪れた事も、リストカットが
止まった原因のひとつとも言える。
今日もまた夜遅くなれば過食嘔吐が待っている。
今も食べたい衝動を抑えている。
それは次の日午前中に起床してしまわない為にも
お薬を遅い時間に飲むようするからという理由がある。
朝早く目覚めた時は1日が酷く長く感じられ苦しみが倍増する。
今日こそ1回の過食嘔吐に留めたいけれど、無理だろう・・・。
妹が姪と彼氏を連れてご飯を食べに来ているから。
隣の部屋で母と共に鍋を囲むから。
私は自分の部屋でお酒を飲むだけ・・・隣の楽しそうな声を
聞きながら。
だったら参加しちゃえばいいのに、どうも妹の彼氏とは話が上手くできないし、人前で食べて止まらなくなる姿を見せたくない。
過去の苦しみは、未だ私の胸を引っ掻き続けている感じがする。
手首を切るのは気力や衝動が伴わないと出来ない。
私のリストカットは自戒の意味が大きく、一気に切り刻むから
アドレナリン全開で手首に己に対する憎しみを込めてやる。
心が不安定な時はリストカットに依存していた部分がある。
初めて手首を傷つけたのは中学1年生の時であった。
布を切る裁断鋏で切った。血は滲む程度で表皮が傷ついた
だけであった。そしてやがてはアームカットに変わっていった。
高校生の頃、様々な悩みを抱え病気に苦しんでいて
どうしようもない時、カッターで腕を切った。
幾分すっきりしていた。
その悩みの中には中々過食嘔吐が止められなかった事も含む。
その上でクラス・学年での成績を2位に保たなければ
ならなかった。
1人、男子に僅差で成績が敵わない人がいた。
私が高1の頃は、何故か私がずっと学年1位であったのだが、
彼が言うには勉強の楽しさに魅入られたという事だった。
実際、私が授業を抜けて精神科に診察へ行った時ノートを
借りたが、周りの女の子よりも遥かに解り易く効率的な
ノートの取り方をしていた。「こりゃぁ敵わん」と思った。
しかしまぁ、私の住む地域では最低レベルの学校だったから
私のレベルは大したものではない。
そして・・・。大学に行きながら働き、そこでまたストレスが
溜まっていった。家には学費を払うお金が無い。
だから学費免除の制度で卒業まで必死になるしかなかった。
けれど、高校以来ご無沙汰だった恋愛もできた。
彼は8歳年上でかなりのワーカホリックだったので
一緒に住んでいた彼のアパートに帰ってくるのは
午前2時〜3時は当たり前だった。
独り夜を過ごすのは余りにも寂しすぎ、アルコールに溺れ、
その勢いで腕を切るものだから日に日に酷くなっていった。
縫合さえしたことないが、未だに大きなケロイドとなって
残っている。勿論過食嘔吐も日増しに酷くなっていった。
そして大学の保健管理センターで睡眠薬や抗うつ剤、向精神薬、
抗不安薬をもらうようになった。それは量も種類も多く、
手先の震えが止まらないし、日中の眠気は酷く副作用が
かなり出てきていた。
元々ぼぉーっとした感じなのに、拍車がかかって
全てがぼんやりとした。
やがて彼氏とすれ違いが多くなり、一寸した事で彼は
壁を殴って見せ付けられたり、罵倒したりするようになった。
それでも彼の存在が恋しく寄り添っただけなのに、
「そんなにヤりたいならセックスフレンド作れば」と
冷たく言い放たれて・・・でも彼に縋っていた。
これこそ消したい過去の1つである人への依存である。
そして突然彼の部屋で別れの言葉を告げられ、
『もう自分は生きていても仕方ない、消えてしまおう』と
飲まずに溜めていた睡眠薬の類を100錠強白ワインで飲み干した。
気付けば在学していた大学の付属病院ICU。胃洗浄を
したとの事で鼻や口の周りが
活性炭で真っ黒でぱりぱりになっていた。そして活性炭は
下痢を起こして下からも薬の成分も出すので尿道カテーテルの
上にオムツをしていた。冷ややかな看護師が「下●便を漏らし
そうになったら言いなさいよ」と言い放ったが、数秒毎に
訪れる下腹部の痛み。側に看護師が居た訳でなくまだ薬の
所為で意識が混濁していたから言い出せず、オムツに
出してしまい、見つけられたら
「あれだけ先に言えっていったでしょうが!」と叱責された。
この事で母に多大な迷惑をかけてしまい、薬が抜け切らない頭で
必死に謝った。でも「死ねなかった」と絶望もした。
私はそれでも彼の事を忘れられず、「好き」という気持ちを
こちら側は残したままの別れだったので、
彼のアパートを訪れたり、話し合いの場を作って
もらおうとしたりと必死だった。一歩間違えばストーカーだ。
でもPCメールではっきりと「迷惑だしもう付き合っている
彼女がいるから」と告げられ傷は癒えぬまま諦めざるを
得なかった。
傷を癒してくれたのはやっぱり時間だけだった。
1年以上はかかった。そして突然訪れた身内の病気。
祖父が脳出血で倒れたのである。救急車で○赤に運ばれ
左脳前頭葉から広範囲にわたっての出血の為
予断を許さない、肺炎を併発したら覚悟してくださいと・・・。
それに祖母がいないと祖父は暴れた。家に帰せと。
祖母は退院まで病院で寝泊りする日が続き、苦しんでいた。
そうして祖父は少し程度の重い認知症を残したのみで半身麻痺
等の障害を残す事無く退院できた。
唯、入院中は一進一退の病状であったし自分の無力さを
突きつけられた感じを受けた為、何故かリストカットに走った。
『じいちゃんの苦しみがこの手首を切る事によって少しでも
和らげば』と。毎日右、左と欠かす事無く傷つけた。
今思うと根拠の無い馬鹿げた行為だと思うけれど、
それだけ必死だったんだって今は振り返る事が出来る。
そんなにも浸りきっていたリストカットの魔力から
抜け出る事が出来たひとつの原因に、姪の事がある。
ごっついリストカットをした時は携帯で撮り保存していた。
或る日髪を切って可愛くなった姪を携帯で撮った。
そして「見せて見せてぇ」とせがむ姪に撮った写真を見せよう
としたら、一緒に私の、幾つもの流血写真が映し出された。
「いけないっ!」と思ったが遅かった。
『ねえちゃん、痛い痛い?血?ねえちゃん痛い痛いの?』
こんな小さな子どもにまで悲しい思いをさせて自分は一体
なんて酷い事をしているんだと涙が出た。ショックだった。
これは止めなければならないと覚悟した。
そうする内に、気力も無くなり抑うつ状態が酷くなった事から
切る事は無くなった。
リストカットする時にはセッティングしなければならない物が
ある。血を受け止める新聞紙・剃刀・消毒液・ティシュー・包帯
等。揃えるのも面倒。ならば止めてしまえとも思えた。
時を同じくして妹の彼氏が毎日家に泊まりこむのを母が注意し
追い出し、それに伴い妹と姪も出て行き、妹の友達が毎晩
夜中過ぎまで居座る事も無くなった。
私にも心の安定が危ういながらも訪れた事も、リストカットが
止まった原因のひとつとも言える。
今日もまた夜遅くなれば過食嘔吐が待っている。
今も食べたい衝動を抑えている。
それは次の日午前中に起床してしまわない為にも
お薬を遅い時間に飲むようするからという理由がある。
朝早く目覚めた時は1日が酷く長く感じられ苦しみが倍増する。
今日こそ1回の過食嘔吐に留めたいけれど、無理だろう・・・。
妹が姪と彼氏を連れてご飯を食べに来ているから。
隣の部屋で母と共に鍋を囲むから。
私は自分の部屋でお酒を飲むだけ・・・隣の楽しそうな声を
聞きながら。
だったら参加しちゃえばいいのに、どうも妹の彼氏とは話が上手くできないし、人前で食べて止まらなくなる姿を見せたくない。
過去の苦しみは、未だ私の胸を引っ掻き続けている感じがする。
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